最後の大玉が夜空を支配した一瞬、隆雄の中の砦が決壊した。
それは彼が長年堪え、隠し続けた想いだった。

人目を気にして庭からこそこそと侵入しなければ顔すら見れないような相手なのだ。
ここから連れ去ることは簡単かも知れないが、守り切ることは出来ないだろう。
幸せにしてやることは、きっと出来ない。

「――すまない」

降りそそぐ光の粒の下、ほんの刹那触れた唇の感触を残して、男は逃げるように爽子の元から去って行った。

遠くでは祭りを締めくくる太鼓の音が響いている。
裸足で呆然と立ち尽くす爽子を、そこに集った金魚たちが見守っていた。
囚われの金魚が、飛べない金魚が、触れられない金魚が。

そっと唇に指を這わす。
頬を伝った涙の意味に、彼女はまだ気付いていない。
風鈴の音が現実に引き戻す。
隆雄がここに来た痕跡を隠すように、飴細工と硝子細工をそっと自室に隠した。
それから風鈴と一緒に風にそよぐ金魚を移す容器を探して家中を駆けまわり――

どうしようもない衝動に駆られて、もう職人たちも誰もいなくなった店に駆け込むと、そこに残されて並んでいる自らが創作した金魚の和菓子を次々に破壊した。

哀しくなんかない、辛くなんかない。
私はここで生きる。
生きる。
そう繰り返しながら。

噛みしめた唇にはもう、去った男の余韻はなかった。
涙は乾き、代わりに流れたのは噛み切った唇から滲み出た鮮やかな血であった。







*完*


(執筆2014/07/22)