遠くなっていく彼女の足音を聞いて、はぁ……と溜め息をもらす。


もう慣れたはずなのに、いつもこうしてどこかで何かを我慢している。


母の記憶がなくなってから、もう10年以上たった。


記憶がなくなった、といっても、それほど酷いわけではなく、ほんの数年の記憶が抜けただけ。


だから、私のことも誰だかわかっていない。


彼女の頭の中で、とりあえずは一緒に暮らしている人間といえ認識はあるのだろうが、私が実の娘だということは知らないのだ。


寂しくは、ない。


でも……自分を偽るのは、辛い。


包丁の柄には、まだ彼女の体温が残っていた。