父の顔が、ぼやけていく。
どんどんと遠くなって行く父の姿。
届かない。
横から吹き抜ける風が気持ち良く感じる。
だけど今度のそれは、潮の香りは漂っていなくて。
目の前を桜の花びらが1枚飛んでいった。
頬にこびり付いているはずの砂を拭い取ろうと頬を撫でると、そこにはザラザラした感覚も痛みもなかった。
「ん、起きた?」
突然の男性の声に、はっとする。
「あれ」
思わず声が漏れた。
窓際の席。突っ伏したまま眠ってしまっていたらしい。
そっか、夢か。
あの優しい父の姿も。
風に仰がれたカーテンが大きく波打って一瞬私の視界を奪うが、すぐに定位置に戻る。
そこに、男の人が立っていた。
「あ、先生。ごめんなさいっ、私寝ちゃって....」
「んー?大丈夫だけど、疲れてんの?勉強のしすぎ?」
ヘラヘラして、私に言葉を向けてくるのは担任の宮瀬光輔(みやせこうすけ)先生。
やばい、2人きりだ
「てか、相川、頭いいのな。びっくりしたよ俺」
「別に、大したことないです」
会話をしながら、荷物を整理して鞄を持って立ち上がった。
「ん、帰んの?」
「はい。もう遅いので」
2人きりという状況が耐えられなくて、早くここから逃げ出したかった。
でも。
今まで机に突っ伏してたせいで乱れた前髪と、スカートの裾を直して歩き出そうとした時。
「あ、ちょいまち、桜」
先生がゆっくり近づいてきて、右手を私に向かって挙げてくる。
いや。
怖い!
「ひっ」
声にならないような小さな悲鳴をあげて、私は反射的に目を瞑り身構えた。
手が......、怖い。
私を襲う恐怖。
父親の顔が浮かび離れない。
いやだ。
殴らないで。
痛くしないで。
「ご、めん。桜ついてるよって......」
先生の声で私は我に返った。
ゆっくり目を開けると、びっくりして困ったような顔をした先生が、私に向かって伸ばそうとした手で頭を掻いていた。
あ。
父じゃないじゃん。
先生の視線を追いかけると、私の左肩にちょこんと桜の花びらが一枚乗っていた。
それを手で払うと、私は走って教室の出入口に向かった。
「あ、ちょっと!相川!」
後ろで宮瀬先生が私を呼ぶ声が聞こえたけれど、そのまま走って教室を飛び出した。
