僕を止めてください 【小説】



 僕は目を開けて清水センセの寝顔をもう一度見た。意識が無くなって安堵しているのはあなたも同じだろう。あどけないというものはこういう顔を言うのだろうか。だがその目が開いた途端、狂気が溢れ出る。もう其処は修復はつかないように見えた。
 自分の能力にうんざりする。壊れている場所はひと目見れば分かるのだ。初めて会った時から薄々気がついていた。言語化したくなかっただけだった。最初はそれが僕のせいだと思った。その次に彼の忌まわしいトラウマを知って、僕は原因ではなく結果だったことを悟った。そして、彼があの告白で「語っていないこと」がずっと僕の目の奥に映っていたことを、耳の奥で囁いていたそれを、今ここで再確認したくもなかった。


 ……朝から陰鬱で汚い灰色に固まった彼の心を逆撫でる母親の痴態が垂れ流されている。今までこんなことは無かった。朝になれば普通の日常が何食わぬ顔をして戻って来ていたのだ。それなのに今朝はどういうことだ? まだ、父親の摂った朝食の皿が食卓の上から消えてもいないのに。寝て起きればなかったことになるはずのあの悪夢が、日常と地続きであるなどあってはならないのに。
 彼の身体に絡みつく生温い指、舌、粘膜、髪……幼い彼の心にダメ押しとも言える絶望感が支配する。忘れられるはずもない。だが消し去りたい。なにもかもなかったことにしたい。心臓を鷲掴みに潰される苦痛からひたすら逃げ出したい、それだけ。では、どうすればいい? 僕が消えるか、あなたが消えるか、二人とも消えるか? 僕が消えてもお母さんは苦しいままだ。自分の渇きと息子を喪失した飢えでどのみち発狂するだろう。それなら、あなたを殺して僕も死のう。こんな気持ちではこの先生きてはいけない。お母さん、生まれてごめんなさい。僕さえいなかったらこんなに壊れることなんてなかったのに。でも、もうこれ以上無理だよ。耳元で囁かれる甘ったるい頭のおかしい淫語の断片。かわいそう。きもちわるい。かわいそう。きもちわるい。かわいそうかわいそうかわいそうかわいそうかわいそうできもちわるいぼくのおかあさん!

 いま、たすけてあげる

 渾身の力で突き飛ばした。なにかがドスンと床に倒れる音がした。音だけ。目を開けられなかった。それきり、家の中から音がすることはなかった。

「いってきます」

 彼はいつも通り学校に向かった。歩いていても平衡感覚がおかしい。さっきから頭の中がずっとグルグルしていて自分を殺すのをすっかり忘れてしまっていた。母親がもう二度と動かないことも……