そう、小さい裕は言っていた。初めて抱きしめてくれたと。そして死んでしまった。だから最初で最後だったんだ。

「珍しく素直なこと言いやがって」
「そうかもですね…わかっちゃったんで…けっこう自分でも予想を超えてはっきりわかってしまって……もう否定出来なくて」

 なにか、どこか憑き物が落ちたみたいな感覚だった。雨の後の遠くまで見える透明な空気に似ていた。それがあの悶絶するような淫猥でドロドロな営みをこじ開けて出てきたのが人の不思議なのだと思いもした。

「まさか…お前が生きてる人間に執着しているとはな」
「死んだ人です」
「死人は抱きしめないんだよ」
「そうでしょうか。その抱擁は死の前でなければ生まれなかったとしたら、それはもう死の一部なのではないでしょうか」
「それでも死ぬ前の最後の一瞬は生きた人間だろ? それは生きていなければ絶対になかったものだろうがよ」

 確かにそうかもしれない。死に取り憑かれてはいるけれど、その時間は確かにその人が生きている人間であることは意地になって否定することではなかった。

「まぁ、そうなりますかね。それで自殺前の一瞬の光景を僕は自殺屍体から見せられるんでしょうか。自殺屍体がうるさくしゃべる内容は、自死の前の一瞬というのは間違いないことですから」
「そういうことなのかもな。それが岡本の自殺屍体を見て出てくる性欲の源ってことか。抱きしめられて、すぐにそれを失ったんだから」
「抱きしめられたことが、ですかね? 失ったから、でしょうか?」
「どっちもだろ。まぁ幼児だから性欲になったのかもな。幼児の性欲の対象は何にでも向くっていうから。小児の性欲は乳児の頃からあるってフロイトも言ってるしな」
「僕を抱きしめに来るのがみんな男の人だというのも、それが父親だったからなんですかね?」
「まぁ、そういうことかもな。そして例の司書くんが封印を解いたってとこか」
「封印…」
「だって、それまで性欲なんて感じたことなかったんだろ?」
「ああ、そうですね。本で読んで知ってはいましたが、自分にあるということは考えても見ませんでした」
「これは偶然というか、運命というかわからんけど、初めて自殺屍体の写真集で性欲を感じて、初めてあいつに首を絞められて、初めて精通して、初めてレイプされて、初めて性行為させられた、っていうそれが全部重なった、ってことだよな。岡本にとっては人生が裏返ったくらいの衝撃だったはずだが」
「ええ、それは当たってます。いきなり死人が生き返されたんですから。裏返りました」
「きっと親父さんの最期の時も……お前は裏返ったんだろうな」
「ええ……多分……だから封印したんでしょうね」

 すると幸村さんは変な顔をして黙ったかと思うと、急に文句を言い始めた。

「……なんだか調子狂うなぁ。岡本がそんな素直に俺の言うことに同意するなんて、童貞の都合の良すぎる夢の中みたいで気味悪いわ。明日地震で日本が沈没するのか? それとも隕石が降ってきて世界が終わるのか?」
「え……なんなんですか? ツンデレでも素直でも気に食わないんだったら、なにも言わないほうが良いですかね」

 僕が嫌味を言うと幸村さんは慌てて僕の肩を掴んで顔を横に振った。

「いや、やめろ。お願いだからそのままで話してくれ。あまりの事態に俺が耐えらんなくてフザケちまったんだ、すまん。いや、初めてちゃんと会話してる気がするんだ。この時間が永遠に続いて欲しいくらいだ」
「そうですか。そんならそう言えばいいのに」
「ごめん。悪かったって」
「まぁ、いいですけど。僕もこんな素直な気分になったのは初めてかも知れません」