僕を止めてください 【小説】



 あの発作と比べるべくもない。ささやかだった。こんなもので病む必要など無いように思われた。そうだ、発作が起きたら、そのあと死の衝動がやってくるのだ。生に極振りしたのだから、同じくらい死に振り戻って行く。当たり前のように死にたくなる。メスを自分の指から叩き落とさなくてはならないほど。性衝動、希死、麻痺、そして……終わったのだ。この桎梏が終わった。僕たちは賭けに勝ったのだ。

 そして、幸村さんは、もう責任を取る必要はないのだ。僕のことが大好きなのだというあの人は。
 
「悲しいの?」

 清水センセが心配そうに僕に問いかけた。

「いえ、ようやく、あれから解放されたのかと思うと……なんか……自分でもなんで泣いているのか…」
「長かった、よね」
「ええ……長い年月でした」
「性欲は? オナニーとか…しなくていいの?」

 とても恥ずかしそうに小さい声で、清水センセがまた僕に訊いてきた。

「こんな程度の欲情なんて……我慢して寝たら朝には消えてるのかも知れない、というくらいです。僕は先生のほうが心配です。こんなの見せて、気持ち悪いんじゃないかって……」
「ううん、そんなことない。僕に向かってこない性欲は、気持ち悪く…ないんだね。なんか…変な感じだよ。どう言ったら良いのか…なんか…」

 清水センセは、言葉が見つからずに口ごもった。僕は彼のトラウマを刺激していないということに、とても安心した。

「良かったです。先生を傷つけることにならなくて」
「ごめんね……僕のことで心配させて。性欲はなんでも気持ち悪いと思ってた、今までね。でも、そういうのもトラウマのせいなのかな。君の身体は、なんというか…情欲も死に化粧みたいに見えるんだよ。透明で……美しくなる…というか」
「そうですか。安心しました」
「不思議だ……キレイだよ…とても。ずっと眺めていたいくらい、ね」

 そう言うと、清水センセは黙った。たぶん、僕を見ているのだろう。こんな僕でも見ていられるならば大丈夫だろう。彼のトラウマも融けかけている。嫌悪感という軛からの解放。なぜか互いに解放が起きている。解放の先にはなにがあるのか、それはまだ見えないけど。
 しばらくして、清水センセはソファから立ち上がった、気がした。そしてなぜか震えるような不穏な声で僕に話しかけた。

「あのね、裕くん。僕は君に……謝らなきゃいけないことがあって」

 僕は思わず目を開けた。やはり彼は立ち上がって僕を見下ろしていた。僕は微かに頸を傾け、清水センセを視界に捉えた。彼の顔は少し白かった。嫌な予感がした。