「裕くん、一息ついた?」

 マグカップをテーブルに置いた清水センセが僕に問いかける。時刻はすでに20時を随分回っていた。

「そうですね、僕のせいでだいぶ時間が押してしまいました。すみません。始めましょうか」
「気にしないで。君が良いなら、始めよっか」
「お願いします。先生も大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。いけるよ」

 清水センセは立ち上がって、隣の寝室に入っていった。戻ってきた彼の右手にはステンレスの角形バット、左手には携帯型のAEDがぶら下がっていた。テーブルの上に置かれたステンレスのバットの中には注射器とアンプルと薬剤シートと消毒綿のパックがいくつか並んでいた。清水センセはその中からアンプルを1本手に取った。

「これ、もし君が発作を起こして錯乱したら、首を絞めて落とす前にこれを試すから」
「なんですか?」
「鎮静剤。ハロペリドール。錯乱して暴れる患者が打たれるヤツ」
「ああ、ええ、わかります」
「その前にマイスリーを飲んでおく。それで多分すぐ入眠するよ。目覚めてもまだ発作が持続してたら、そのあと落とすから」
「そうですね。鎮静剤はまだ試したことないです」
「まぁ、そうだろうけど。眠剤も?」
「ええ、薬剤は試したことないです」
「医者なんだから、やってみればよかったのに」
「医者という感覚はないです」
「まぁ、そうかもね」
「成功すると本当にありがたいんですが」
「だよね。僕もそれを願ってるよ。で、こっちは小型AED。まぁ見たことあるよね」
「はい。そのメーカのはよく」
「落として、心臓が止まったら使うよ。約束だからね、君との」

 清水センセも僕も、そこで一回黙りこんだ。そうだ。僕が望んだことだ。だけど、もし、あなたの気が変わったら。心肺停止状態の僕を見たあなたが、本当にそうなった時にどうするのかなんて誰にもわからなかった。
 だがその可能性は限りなく甘美な痺れのようにやってきて、僕を恍惚の渦に引きずり込もうとした。わかってるよ、でもダメなんだ、今は。今はダメ。今だけじゃない、その先も、その先の先も、だ。僕のそれを彼も察したのか、少ししてゆっくり口を開いた。

「本当は…君の望みを叶えてあげたいんだけどな。でも、今回はやめておくよ」
「ええ、そうして下さい」
「強心剤も準備してるし」
「ありがとうございます」
「だったら、そんなうっとりした顔しないでよ」

 わざと呆れたように清水センセは言った。