誰のことも信じていなかった。

 自分だけが大丈夫だと思っていた。その僕が大丈夫ではなくなって、混乱と混沌に飲み込まれ、気が狂いそうになったその時に、その渦の元凶とも言える人を初めて僕は信頼していた。それでもいい。別に良い。結局そんなもんだからだ。大いなるマッチポンプの御手は。
 いつもそうだった。犯された男から人生の目標を貰うとか、殴られたあげく死ねと言われた人間から父親の優しさを受けとるとか、その場ではわけがわからなかったのに、それはあとからわかる。それもずいぶん後から、だ。
 だから、主演僕のリベンジポルノを編集したストーカーから信頼を教わることもある。その人が僕を本当に嘘偽りなく殺してくれるということで。そして僕を殺すというリスクを引き受けたその人をそれが故に“大丈夫”だと初めて思えた。それが社会的な死も肉体的な死も厭わない行為だったからだ。僕にとってそれだけが大丈夫を確信する認定であり、“信頼”を成り立たせる唯一の条件なんだろう。

 ところでなぜ僕は彼が本当に僕を殺してくれると信じ込んでいるんだろう? 何の疑問もなく。信じている。それには理由も証明も論理もなかった。彼はやる。その狂気は空気を伝播して伝わり、その波は言葉よりも深く語りかける。そして頭のおかしい誰かを初めて大丈夫だと思える。頭がおかしいから大丈夫だと思える。それは、僕と同じくらいおかしいという意味でもあった。

 いつものように霊園を回りこんで、清水センセの家に着いた。車庫の中でエンジンの音が消えると、静寂が僕たちを包んだ。
 居間に入ると、さっき僕の部屋で起こった出来事がまるで無かったかのように、僕たちはポツポツとごく当たり前な受け答えを時たま交わした。寒いな、とか、そういえばご飯食べた? とか、そこ座ってて、とか、お水を頂けますか?とか、そういう類の会話を。僕のパニックをキッカケに、互いにこの1週間の罪悪感や緊張感や恐怖感をそれぞれ解放したのかもしれない。本番が目前に迫っているのに、僕の心の中はこの1週間のどの時間よりも平穏だった。晩ごはんは清水センセの作ったキツネうどんだった。何も言わないのに彼は熱々のはずのうどんを僕の分だけぬるくして持ってきてくれた。ソファで二人でそれをかき込み、食後には僕に再び水が与えられ、彼はいつものようにホットコーヒーをマグカップですすっていた。