「僕になんか謝らないで下さい。正気に戻りました。ありがとうございます」
「裕くん! 何してるの!? ちょっと…頭上げて! 本当に大丈夫?」

 身体を起こして僕は深く頷いた。清水センセは驚いた顔で僕の両肩を掴んで、頸をフルフルと横に振った。

「僕に土下座なんてしちゃダメ! どうしていいかわかんなくなるでしょ!?」
「心配させて…すみません。大丈夫です。なんとか、なりました」
「実験、延期したほうがいいんじゃない?」
「いえ、予定通り、します。すみません。ほんと、すみません。僕から頼んだことなのに。今、準備します」
「ほんとに大丈夫なの?」
「はい」

 はい。そう僕は言った。そして、あなたも、こんなふうにだいじょうぶなのかもしれない。

 そうだ。今まで生きている人間を誰も大丈夫なんて信じていなかった。だが、今、僕はこの気の触れた巫女のような男のことを少しだけ信じていいと思っているのかもしれない。さっきの彼の微笑み。そこには崖を飛んで、着地について何も考えていない生き死にを超えたなにか。

 ―いつでも殺してあげられる―

 僕が死を渇望している限り、彼は嫉妬を超えられるほど、どの関係をも凌駕しているのかも知れない。未だかつて僕が生きている人の中で見たことのないそれ。“この人は、もしかしたら大丈夫なのかもしれない”という一縷の望み。過信でもいい。僕にこんな認識をもたらしたのはおそらく初めてなのだろうから。
 そこから僕は肩に置かれた彼の手を外し、無言でベッドを降りた。急いでカバンと携帯を持って、コートを着る。まだ少し手が震えている。清水センセはそれを黙って見ていた。玄関に向かいながら振り向いて彼に告げる。

「行きましょう」
「ああ、うん、行こうか…」

 二人で部屋を出た。プリウスに乗り込む頃には手の震えもだいぶ治まっていた。
 
「いろいろ起きるね、大事な確認の前って」

 しばらく無言だった清水センセが、赤信号を待ちながらポツリと呟いた。ウインカーの音が“カッチカッチ”と響く。

「ええ、そうですね。でも助かりました」
「なにが?」
「殺してくれるって、言ってくれて」
「いつもそこで君は安心するのに、僕は君に止められる」
「我に返りました」
「良いんやら、悪いんやら」
「良いんですよ」
「なんでそこを無理するんだろ?」
「わかってらっしゃるでしょ、もう」
「そうだけど」

 信号が変わり、左折のハンドルを切る。霊園の静かな気配がしてくる。彼の家までもうすぐ、のはずだ。