今までの実験も苛酷だった気がするが、今回も変わらず苛酷であろうと思われた。かつて小島さんは実験の結果を見るのが怖すぎて、実験の途中で中学生の僕と心中を図った。その小島さんの恐怖を僕は今まさに味わっている。右足に絶望、左足に恐怖という靴を履いているみたいだ。それは歩くほどに重く沈み込んでいく。ようやく見えてきた標識は“破滅”と“希望”。だが、どこを指しているのかわからない。隆、あなたはこんな怖ろしい道を歩いていたのか、と。初めて僕はその想いに至った。遅すぎた気付きは、あの時のユニットバスのカーテンレールの脆さに、震えながら感謝を捧げるほどだった。そしてなんの偶然か、僕は期せずしてあの時の隆と同じくらいの歳になっていた。
 未知の何かを試そうとするこの営みは、人類が人類たる所以のなにかなのだろう。動物にはない、概念としての過去と現在と未来という認識の中でそれは思考される。推論してしまう、その結論が欲しい。未来を危惧してしまう、その結果を見たい。仮説を思いついてしまう、自分の正しさを証明したい。信じがたい言説を聞いた、そいつの妄想を否定したい。過去も今も苦しい、苦しみから解放されたい……なんにせよ欲望なのだろう。僕らがなにかを試行錯誤するというのは。

 金曜日は、朝からまた雪が降りそうな曇天だった。師走もそろそろ終わりそうな年の瀬とか呼ばれる時期は、なにかと事故が多く、その日も午前中からトラックとバイクの衝突事故の遺体が運び込まれた。警察の調べでは、前日に忘年会で飲酒して、二日酔いのまま朝からトラックを運転していた模様で、深夜1時までに浴びるほど焼酎を飲んだようである。トラックのドライバーも死亡、バイクのライダーも死亡。屍体が2体運ばれてきた。多忙な季節が故に12月は事故が増え、自意識に集中する間もないが故に自殺は減る。だが、ひたすら忙しかった。忙しいのにいつ運び込まれてくるかわからない自殺の屍体に怯えて過ごすためか、睡眠不足と神経疲労が日々積もっていった。