「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれってね。昔から言うでしょ?」
「だいぶ普通になってきた気がしますが、先生はもう大丈夫ですか?」

 一応念の為に本人に確認する。

「ああ、ありがとう。だいぶ普段通りの意識になってるみたい」
「まだ僕のこと夢の中の人みたいですか?」
「いや、全然」
「良かったです」
「君と話せてるのは夢みたいなのは変わらないけど、今は現実だって思える」
「明日も服薬、忘れないで下さいね」
「肝に銘じて」
「それじゃ、僕、申し訳ないんですが、晩御飯にします」
「あ、ごめん! タイミング悪い時に電話しちゃったね」
「僕も電話する予定だったので大丈夫です。それに実験に向けて、今後も先生の精神衛生は大事ですから、そこは心配しないで下さい」
「ありがとう。あのさ、申し訳ないんだけど…また電話するかも」
「良いですよ、出られたら出ます」
「それで充分だよ。それじゃ、金曜日に」
「はい、よろしくお願いします」

 電話を切り、ようやく着替えた。キッチンに立って味噌汁を温めながら、後戻りできない地点に行こうとしていることを反芻した。全く知らない場所の知らない暗闇で足を一歩、前に出す。そこに何があるか、何もない虚空なのか、着地できるのか、どうなればそれが正解なのか、僕には暗すぎて本当にわからなかった。ただ、それでしか見えてこない真実の存在が、狂った僕たちを漆黒の闇に駆り立てる原動力だった。

 これが僕の賭けだった。真実というカードにおのれの全てを賭け金として投げ出す。切り札のカードはこれ1枚、あとはブラフだ。そんな選択が出来たことは、トラウマだらけの僕らにとって奇跡と言えることだけは間違いなかった。不思議なことに、それは博打にしてはほんの少しの自暴自棄の匂いも手触りもなく、妥協の味もしなかった。絶望に端を発しているはずのそれは、追い詰められ真っ暗で怖ろしいわりに、なぜか純粋と思えるような妙な賭けだった。