だが、安置室の遺体袋の前で一気に緊張が緩んでいた。ああ、これは自殺ではない! 一気に緊張が緩和する。まだ僕はその洗礼を受ける時期ではないらしい。一気にホッとする。菅平さんと一緒に解剖室に遺体を運んだ。検視時の写真と報告書を確認する。袋を開けた後は、ひたすら骨をブラシでこすり、土を落とし、それを菅平さんが水洗いしていく。全身揃っているのかまだわからない。まず頭蓋骨を、その後、手足を構成する大きい長管骨から処理しようと言う手順になった。頭蓋骨と下顎骨を探す。下顎骨はもちろんだが、頭蓋骨には上顎骨が付いているので、歯がある。すでに検視の時点で警察歯科医が綺麗にして身元特定のために写真を撮り、デンタルチャートなどの歯科所見を出し、各院のカルテと照合してもらっている。

「歯科所見です。いつもの永瀬先生です」
「今回の歯科の検視は写真が撮りやすかったでしょうね」
「軟部組織がなにも付いていませんしね」

 焼死体や死後硬直など開口不能な屍体では、検視で切開などを行ってはいけないので、レントゲンなどで非破壊検査を行うしか無い。移動式のX線撮影装置一式などが検視の装備に加わる。今回はなにしろ骨だけだし顎関節は外れていて、写真も撮り放題、歯も360度観察し放題なのである。
 頭蓋骨の中の土を掻き出していくと、雑草の根っこが絡みつき、おまけにダンゴムシやコガネムシの幼虫などが色々這い出してくる。大きいポリ袋にそれらを棄てて、虫が部屋に這い出さないように袋の口をいちいち袋止めクリップで密封する。菅平さんは頭蓋骨から外れた状態で発見された下顎骨を処理している。我々はお互い、歯を眺め、そして、図ったように顔を見合わせた。先ほど読んだ所見通りの状態だ。

「たしかにそうです、治療痕がありません」
「虫歯は多いですね」

 成人の死体で上下の歯は虫歯だらけで治療痕がないというのはあまり見ない。資料にあるとおりだった。

「もしかすると骨が古いのかな。戦前とか」
「ではこれは出土でしょうか?」
「いえ、そう言う報告はないみたいです」

 特に屍体の周囲に出土品や棺桶の残骸があったりするわけではないようだった。警察もまだ捜査が始まったばかりで、検視ではほとんどなにもわからない状態らしい。鈍器で頭を殴られていたりすると、頭蓋骨が陥没したり骨折が見られたりするが、このケースはきれいなもので、頭は丸くて欠損は薄い眼窩の骨以外ほとんどない。