だが、今後はその幸運にしか頼る先がないのかも知れない、と八方塞がりの僕は気がついた。僕の死神を無力化し、幸村さんの追及から逃げおおせられるのは、彼の幸運の女神にしか頼るすべがないのだ。頭がおかしい人の直感のようなものがあるとしたら、精神が壊れた代償として人智を超えた認識が恩寵として付与されていても良いのではないか? 僕の頭がおかしいから自殺者の匂いがわかるのと同じように。
 不意にピンク色した彗星の形の傷を思い出した。ほんの少しずれていたら死んでたはずの銃創。彼は言っていた。ここで命拾いするのかって不思議な気分になった、と。彼の本質的な変容はそのあたりで起きたのかも知れない。あれが頭が壊れた代償の恩寵を顕す刻印であるなら、もしかすると死神は彼を避けるのではないだろうか? 聖書の出エジプト記のように、すべての生まれたばかりの子供を殺すという残酷な神の厄災の中で、二本の門柱と鴨居に子羊の血のついている家には、それが降りかからないと神はモーセに伝えた。

 もしかしたらあの傷がある限り、清水センセは死なないのではないか? 僕を殺した後も逃げ切れるのではないか? 雪道を歩きながらそんなファンタジーを僕は夢想し、一瞬でもそんなことが起きやしないかと期待した自分のお気楽さを呪った。そもそも僕は、幸村さんが“俺はなんか守られてるんだ”と言うそれにもどこかで無意識に期待していたと思う。幸村さんに対するガードの甘さも、そういう期待から来ている。結局僕のメンタルはオカルトに依存してるってことか。バカみたい…
 ぐだぐだ考えていると、いきなり視界の後方からシルバーの車体がぬっと姿を表した。音がしない。プリウスだ。ほんとにこの車はいつの間にか後ろにいて、視界に入るまで近づいて来たのがわからない。轢かれるわけではないがドキッとする。清水センセが尾行に使うのもわかる。車はそのまま静かに僕を追い抜いて去って行った…

 あっ。

 その時、僕は唐突に気がついた。彼が幸村さんと僕の関係を知っているのか、という問いの答えを。
 さっき、僕は不思議に思いながら聞いていた。清水センセがなぜそんな自分に不利な事実を僕に告白するのか、と。だが、言わなければ僕にバレることはないその告白は、僕に、ある決定的な認識を与えるための親切なヒントだったとしたら。

 いつものように、夜、プリウスの中で悟られないようにマンションのエントランスを見守っていると、普段は自転車に乗って帰ってくるはずの僕がいかにも具合悪そうに自転車を押して帰ってくる。そのあと彼のよく知っている男が僕の部屋を訪れ、明け方帰っていった。清水センセが僕を見つけたのは9月、僕が山林に遺棄された優しい自殺屍体の解剖を行ったのは……10月。
 雪の道で立ち尽くした。チェックメイトだ。その夜彼は知ったんだ。僕と幸村さんの関係を。