車がマンションの前で止まる。では、と言って助手席のドアを開けて降りようとすると、清水センセが縋るように僕を呼び止めた。

「裕くん」
「はい?」
「あの…電話、しちゃうかも」
「いいですけど」
「いいの?」
「はい。状況的に出ないこともありますが」
「それでいいよ」
「それでいいなら、どうぞ」
「わかった。ありがとう。じゃあ、ね」
「はい、お世話になりました」

 エントランスに行く前に車が去っていった。エレベーターの中で、部屋に帰ったらすぐに自分のベッドで起きるまで寝よう、と心に決めた。

 ドアを開けて部屋に入った瞬間、廊下に綿ぼこりが溜まっているのが見えた。振り返って考えるに、もう10日以上掃除機を掛けていない。ここしばらくそんなことをできる精神状態では無かったし、昨日まで部屋のホコリなど目に入ってなかった。始まりは凍死の彼の解剖を独りでやってからだが。土曜日にまとめて掃除をする僕は幸村さんのご訪問で掃除をし損ねていた。ということは、もう2週間やってないということだ。それはホコリも溜まろうというものである。まだ日は明るい。しかたない、寝る前に掃除をしよう。掃除機を押入れから出して、久々にコンセントを差した。

 ブォォォォ…僕の嫌いな騒音が部屋に鳴り響く。まずは廊下から、そして部屋へ。ラグにノズルを擦りつけながら考える。よくわかんないけど、一応今は掃除できる精神状態なのか。焦燥と希死、絶望と渇望、何も手に着かない、佐伯陸の言う“上の空”がずっと続いてた。その時と今と、何がどう違うのか? 昨日の清水センセに電話した時から帰宅までの時間に何かが起きたのだろう。殺されて死ぬのを保留したのにな。それならやっぱり、僕さえその気になればいつでも殺してくれる人がいるからだろうか? いや、それで頭が煮えていたんじゃなかったっけ? ではなぜ今日は掃除をする気になれたのか?
 何が正解か考えながら、僕は掃除機を掛け続け、掃除が終わると、寝ずにスーパー丸屋に買い物に行き、胚芽米と野菜と卵を買い、帰宅すると引き続き晩御飯の支度を始めた。その間、昨日今日の出来事を回想し続けた。言いたいことを言えたから、なのか、自分より傷付いている人を見ると冷静になるから、なのか、気分の良い墓地を散策できたからなのか、とか。