僕を止めてください 【小説】




 清水センセの挙動が止まった。目だけが僕の居る方と反対に泳いだ。

「……いつからそう思ってた?」
「たった今、ですが」
「裕くん、僕は君に全戦全敗なんだけどね! 好きになっちゃった時点で!」
「それでトントンだと?」

 清水センセは口元をへの字にして難しい顔をして黙った。沈黙しながらも怒りは燻ってるみたいで、奥歯を噛んでいるのが咀嚼筋の動きでわかった。長い間の末に、チッと舌打ちの音が聞こえた。そしてゆっくりこちらに首を回して僕を睨みつけると、僕と目が合った。目が合うと清水センセは急に仕方ないというように、はぁ、と溜息をついた。

「そうか……わかったよ。じゃあ互いの信頼関係のために、特別に君にだけは教えるよ。仕方ないな。言ったことないんだよ。思い出したくないから」
「誰にも言いません」
「有り難いよ。せいぜい秘密にしといてよ」
「ええ、それは」
「これ以上具合が悪くなったら、君が介抱してよ」
「はい」
「……言いたくないな」
「言ったほうが良いです。良いと思います」
「なぜ?」
「この件に関してこんなに具合が悪くなるのでしたら、言わないデータはあるけど、誰かに言ったデータは無いから必要だと思います。先生の弱点もわかってたほうが今後のためにも良いと思いますし」
「ああ、そうだね。理論的だ。優しいのか優しくないのかわかんなくなったけど」
「だから言ったでしょ」
「そうだね。水」
「は?」
「みず」

 取って、ということなんだろう。さっきのコップに水を半分ほど注いでから倒れたままの清水センセに渡そうとした。

「はい、これ取れます?」

 そう言いながら見ると、清水センセの手の上にはいつの間にか例の錠剤が2個乗っていた。僕が止める間もなく口に放り込んだかと思うと、その手が僕の手からコップをもぎ取り、口の端からソファに水がこぼれるのも構わずに飲み干した。

「ちょっとそれ、用量大丈夫ですか?」

 慌てて訊いた。

「効かないから増やしただけだよ」
「今日は何錠飲んでるんですか?」
「だって君が話せって言ったんだよ? こんな話するときに何錠飲むべきかは本人にしかわからないよね」
「意識が無くなるとかありませんか?」
「多少朦朧とした方が良いと思うよ。そしたら話しやすいと思うけど?」
「そんなだったら、もう無理しないで下さい」

 さすがにこんなことをされると、いくら不服でも心配になってきた。すると、なぜか清水センセは微かに笑った。

「だって、話せって、裕くんが一応僕のこと思って言ってくれてるってことだよね」
「ええ、まあ」
「気分悪いのにちょっと幸せな気分になった」
「え」
「それに、考えてみたら僕への個人的な興味なんてそうそうないでしょ?」
「ええ、まあ」
「だよね。だから、裕くんが話して欲しい時を逃すなんて出来ない」
「それで大丈夫なんですか?」
「それは知らない」

 そう言うと清水センセの身体がダンゴムシのようにソファの上で丸くなり、外したメガネを床に落とし、そしてそのまま動かなくなった。防御姿勢の彼に声を掛けるのをためらっている間、どれくらい経ったかわからないが、薬が効きすぎて意識がなくなっているのかも知れないと思い、落ちている彼のメガネを危険回避のために拾ってテーブルに乗せ、声を掛けた。

「意識、あります?」
「あるよー。心配したぁ?」

 答えがすぐに返ってきたのでホッとした。いつもより語尾が伸びている。

「ええ、ODで昏睡してるとか、ありそうなんで」
「心配してくれたんだぁ。嬉しいなぁ。なんかもうよくわかんないんだけど、いいんじゃない? 薬が効いて来たのかもー」

 防御姿勢が少し緩み、そしてまたフッとほほえんだ。

「4錠でこれかぁ。寝ちゃったらごめんねぇ」
「いや、その時はそれでいいですよ」
「良いのかぁ。じゃあ話すかなぁ……どこから話そうかなぁ」

 薬が効いて来てるらしいのが口調の変化に出てるように思い、少し安堵した。少し間があった後、清水センセは話し始めた。

「えーっ……とねぇ、僕はぁ、小3……の頃からぁ……」

 そして、上がっていた口角がスッと下がった。
 
「母親にね、犯されてた」

 一瞬思考が停止したのちに、軽い吐き気がした。その事実と、僕がこれを言わせようとしていたそのことと。