「ああ……くそっ」
「本当に大丈夫なんですか?」
顔をしかめたまま、答えはなかった。
「持病とか」
「持病、みたいなもの、かな」
「あるなら薬取って来ましょうか?」
「ああ……お願いしようかな。隣の部屋の仕事カバンの中にソラナックスがあるから」
「はい。取ってきます」
「黒い、革のヤツね。中にミンティアのケースがあるからそれ持ってきて」
「わかりました」
思わず黒い本を抱えたまま立ち上がっていたが、気がついてテーブルに置いた。
ソラナックス。ベンゾジアゼピン系の抗不安薬でパニック障害やウツとか不眠症の薬だ。隣の部屋は寝室だった。デスクの前に椅子があり、その上に黒いカバンが乗っていた。ミンティアのケースを探す。
「これですか」
見つかったブルーのケースを清水センセに渡す。
「水くれる? コップ、裕くんのでいい?」
「ええ、構いませんが」
ミンティアのケースの中からはミントではなく錠剤のシートが出てきた。コップに水を注ぎテーブルの上に置いた。
「最近これもあんまり効かなくって」
清水センセは横になったままシートから錠剤を押し出し口に入れると、少し起き上がり、テーブルからコップを取り、ダルそうに一口飲んだ。
「昨日もこれ飲んで、結局パニックが治まらないから君んちへ行っちゃったんだよね」
「そうだったんですか」
「頓服なのに。連用とかよくないんだけど」
「治まるといいですね」
「さあね」
コップをゴトンとテーブルに放ると、ドサッと雑に倒れた。“さあね”には変に自暴自棄な感じがした。
「治まりそうにないですか?」
「地雷を踏んだのは君だ」
「あの、どこに埋まってるかわからないから“地雷”って言うんですよ」
「…ああ、そうかもね。君が踏んだのに僕が爆死してる時点で地雷じゃないかもね」
「死んだんですか?」
「ある意味、死んでる部分もある」
「なにがあったんですか」
「トラウマってやつだろ、正真正銘の、自分でも未だに信じられないくらいのヤツ」
彼は意外なことを言った。中学生の僕のような経験をしたのだろうか。
「トラウマですか」
「ははっ…人から言われると嘲笑っちゃうもんだね。誰にも言ったこと無いから、新鮮だよ」
「僕のトラウマはバラ撒いたのに?」
「…バラ撒いたのは…あの男だよ!」
「そうでしたね。先生はバラ撒けるようにしただけです」
話しているうちに、清水センセが一方的に自分の恥部を知っている不平等に遅まきながら不満が生じてきた。そして、トラウマが原因の性欲への嫌悪は、なにか純粋ではない気がした。つまりトラウマがなければ嫌いにならなかったんじゃないかという理屈が成り立つ。それ以前に、好きなのに性欲が無いなんていうキレイ事は僕の酷すぎる性体験上とても疑わしくも思えた。隆の語った勃起と友情の境界についての見解が僕の理解に影響を与えている可能性はあるけれど。今は清水センセにいきなりそんなこと言えるような雰囲気では決して無い。それでこんなふうに言ってみた。
「だけど、少なくとも先生は僕の最低の恥辱を知っていて、僕にはなにもない。それはなんだか不公平じゃないですかね?」



