僕を止めてください 【小説】



「僕は最初あの本を見せられた時、発狂なんかしなかった」
「“あの本”ね」
「そうです。僕が頭がおかしくなるのは僕へと向けられた本当の殺意が僕の人生から永遠に失われたことだったって、僕はあの日思い出したんです。中学生の僕は混乱しすぎていてなにが原因でおかしくなるのかわかってなかった」
「君が愛してたのはあの男の殺意だったということ?」
「たぶん。でもそれを愛というのかはわかりません。でもあの殺意を宿した手に首を絞められた時の至福を僕は忘れられなかったんです。それが失われたことを絶望していたと気づかずに」
「じゃあ、君はいま、君はあの本を見ても発狂しないっていうの?」
「もしかしたら、その可能性があるって」
「君を大学の駐輪場に送っていった時に、君にプレゼントがあるって言ったの、覚えてる?」
 
 清水センセの顔が嫉妬で歪んでいる。以前も聞いたことのある冷酷なひびきの声に嫌な予感がした。覚えている。だが僕は首を横に振った。

「そうか。じゃあ、今、それをあげる。見ればいい!」

 清水センセはいきなり立ち上がると、猛然と隣の部屋のドアを開けてその奥に消えていった。1分と掛からぬ間にあれが僕のもとに再びやってくるのだ。すべてを始めたあの忌まわしい写真集が。それを拒絶する理由はもうどこにもなかった。僕がどうなろうと、起きたことだけが現実なのだから。

 ―Suicidium cadavereー 

 黒い表紙に細い白抜きでその文字が浮き出ていた。懐かしい。ゾッとするほど懐かしかった。清水センセの手が僕の胸元にそれを突き出した。一瞬の躊躇。本の角で彼は僕の胸元を突いた。それに煽られるように僕は震える両手でそれを掴んでいた。

「何年ぶり?」
「……覚えて、ません」
「思い出の本でしょ? あげるよ。これから全部始まったんでしょ? 例の発作も」
「ほ……発作?」

 この人はなにを発作と言っているんだろう? あのことを本当にわかって言っているんだろうか。あの夜も同じことを言った。

「しらばっくれなくていいよ。知ってるから。あの男が言ってたって。『僕と別れてから自殺屍体の画像を見ただけで性欲が衝き上げてくる発作に苦しんでる』って」
「し、知りません」
「本屋のAさんが全部教えてくれたよ」
「な、な、なにをですか!?」
「僕はあの動画の上映イベントのあと、Aさんから聞いたんだ。君を売ったあの男からAさんが聞いた話をね」

 どういうことなのだろう? なぜ佳彦が佳彦と別れた後のことを知ってるのだろう? ものすごい速さで思考を巡らせながら急に僕は思い出した。自暴自棄だった寺岡さんが僕の実験の画像をもらいに図書館に行き、佳彦に会ってるということを。