そんなことを言いながら、 葛藤に引き裂かれるというのはこういうことを言うのだろうと、僕は震え始めた自分の話す唇を感じながら思った。震えは再び現れた怖気が具体化したものだろう。僕はある一点のことを指摘しなければならなかった。どうしても。だって、隆は今、寺岡さんと一緒に自分の望んだ幸福の形を育んでいる。僕じゃなきゃダメなことなんて、ない。
 不意に幸村さんの顔を思い出した。僕の気持ちを一切理解していない彼がいつも僕に迫る“生きろ”という迷惑なメッセージを、今僕が自分でリフレインしているこのネジ曲がった皮肉にたった今気がついたから。嘲笑が溢れてきた。僕は唖然とした。清水センセに止まらない主張を続けられるのはこのテキストを過去に言われ続けたせいだったのかと。

「パニックを起こして、ぼ、僕の部屋に押しかけてきた先生を僕は、実際待ち望んでた。で、でもパニックではなく確信で、許しではなくて殺意で僕を訪ねて欲しかったと、あの日は先生に、心底、あき、呆れてました。だ、だけど最後にあなたは、ぼ、ぼ、僕に、あ、ありえないことを誓ってくれた。犯罪者になろうが、社会的に抹殺されようが、僕のために僕を殺してくれる、そんな、そんな約束をしてくれたあなたに、僕は感謝してもし足りません。でも、でも、僕のいなくなった世界で生きる意味がないなんて、そ、そんなこと、を、言うべきではないんです。だって、あ、あ、あなたはまだ、僕を殺したあとの世界をし、し、し、知らないでしょう? その、その世界にい、い意味があああるかないかなんて、あなたはまだ知らないじゃないか。それ以前に、万が一ぼ、僕が生きながらにして幸せになったとしたら、せん、せ、先生がは、は、は、犯罪を犯す意味なっなんてないんです!」

 何を話してもどもることなんて今までなかった。まるで泣き出しそうな声だった。僕は自分の口を手の平で塞ぎ、清水センセから顔を逸らした。腹の底から自分自身を嘲りながらも、自分の言ったことに追い詰められてわななく唇をこの人に見られたくないと思った。追い詰めたのは自分だ。何も知らなかった中学生の僕に戻りたいとさえ思った。あの時の僕なら、「殺してあげるよ」と言われて、なんの屈託もなく「してください」と即座に言えただろう。でももう言えないんだ。あの無邪気で考え無しな自分はもういない。そして無邪気さが美徳でないことだってあると今の僕は言えてしまうのだろう。法医学者になってから何百もの解剖した屍体とそれにまつわる事件を知った。この世では屍体はただの屍体ではなく、社会の中で生者達と織りなされた1枚の物語であり、僕はいつも屍体だけではなく、その織りなす糸をメスで断ちきろうともがいた。屍体を死の世界に返したかった。だけどそれは非常に困難な作業であることだけがこの仕事の中でわかってきたことだった。その経験は僕の動かしがたい欲望と昨日まで切り離されていた。しかし今日、それはこの数時間でいつの間にか繋がっていた。と、同時にすべての大人たちが僕に発していた無意味なメッセージの意味を理解する。今まで渇望していたなにもかもがその景色の中で裏返って見えるくらい。わかってなかった。わかっていなかったのか!
 殺されたくて殺させたくなくて、その激しい葛藤で滑稽なくらい震えている。恥ずかしさで目が合わせられない。すると今までソファから身を乗り出していた清水センセがガックリと顔を伏せ、呟いた。

「君は、優しすぎるよ、裕くん」

 そう言う間もなく、先生は眼鏡を取るとその腕で両目を隠した。両肩が震えていて、それが嗚咽だとわかるのに、僕は少し時間がかかった。