朝からの死にたいという激しい焦燥は霧散していた。現実の力とはこのことだ、と、僕は中学生の時に手首を切って母親に見つかった例の事件のことを思い出した。
“死ぬために産んだんじゃないから”
あの時そう言われた。そして物静かな母に怒鳴られた。その言葉やその空気に驚いた僕はなにがなんだかわからないが焦燥を手放した。今回はどうだろう?
“清水先生は緊急オペ中です”
それが最有力候補だろう。母の言葉も、オペレーターの言葉も、共に「人を生かす」ことを表していた。“死にたい”のカウンターが“生かす”であるのは極々普通のことで、それは幸村さんにもさんざん言われていた事なのに、なぜこうも効果の度合いが違うのだろう?
それはカウンターだったから、だろうな、と僕は推測した。意図せず不意に入ってくるもの。のめった身体が無警戒で食らうパンチだからこそ、ノックダウンするほどの効果を発揮する。幸村さんは僕を警戒させすぎた。
「岡本先生、大丈夫?」
いつの間にか田中さんがお昼から帰ってきた。この前倒れてから田中さんは僕をいつも心配している。倒れるたびにまた意識が戻るのを恨めしく思う。目が覚めなければいいのに。突っ伏したままで僕は答えた。
「大丈夫です」
「いやいや、その格好じゃ信用ならんでしょう」
「寝てただけですから」
「食べてる途中で?」
ああ、そうか。てっぺんの欠けたサンドイッチと半分しか飲んでない牛乳パックが机の上に放置されていた。
「食べ始めたら急に眠くなりました」
「それ、眠気じゃなくて昏睡なんじゃない?」
「昏睡は話しかけたくらいじゃ起きませんよ。今から食べます」
「怪しいなぁ…」
ブツブツ言いながら田中さんが自分の席に移動していった。田中さんに気が付かれないようにそっとサンドイッチを引き出しの中にしまった。牛乳だけでも啜っておこうと、200mlのパックを掴んだ。その手がかすかに震えて僕はそれを押し殺そうとした。その時僕は唐突に悟った。
本当に渇望を叶える人がそこにいて、こんなにも佳彦は怯えたのだ、ということを。



