その時点で僕の脳裏には、あの時の彼女の囁くような声がいっぱいに反響していた。

―しっかりやんなさい

 ああ、これは息子に言ってたのか。自分がこの世からいなくなれば、彼は自立してくれるだろう・・・と。だが、そんな母親の意図に反して、息子は年金が停められないように母親の死を世間から隠そうとした。腐敗が進んでしまったために近所で異臭騒ぎが起き、ついに家に隠しておけなくなり、あの山へ遺棄することを思い立った。

「マジ、可能性高いよね」
「試料は?」
「朝イチで教授が送ったよ」
「良かった・・・」

 思わず言葉に出た。いまあの遺体に触れたらどうなるかと思うと身震いがする。

「いや、ホント。歯科照合も整形外科もまったく反応なかったしね。迷宮入りになるかって思ってたよ」

 僕の“良かった”は鈴木さんによって通常の解釈に納まった。

「まだ可能性、でしょ?」
「いやいや、ほぼほぼ正解なんじゃない?」
「だといいですね」
「だよねぇ。そうだといいなぁ」

 朝から職場で、解剖もないのに希死願望がフツフツと湧き上がってくる。それをどうにかするすべがない。席を立って、静かにゆっくりとトイレに逃げ込んだ。個室のドアをそっと閉める。落下するように便座に座り込んだ。丈夫なロープさえあれば。この配管に僕が下がれるのに・・・! 背中を丸めて顔を両手で覆う。耐えられない。清水センセ・・・早く来て。
 限界です。僕の息の根を止めて下さい。今すぐ。そしてこれはあなたが私に死を下さろうとしているのでしょうか? サンタ・ムエルテよ。それならば骸骨の聖母よ、僕の後ろに立ち、両手で抱きしめてくれないか。