手探りでメガネのツルを掴んだ。電話を切った後の部屋には物音も気配もない。メガネを掛けて少し目が慣れた薄暗い部屋を眺めた。清水センセは仕事に行ったのだろう。僕よりずっとタフだ。僕の意識が無くなってすぐなのか、それとも明け方に出て行ったのかはわからないが、今此処に居ないことに安心した。泣きながら僕の隣で寝ていられたとしたらただただ落胆しただろう。昨日もそうだった。パニクって、すがりついて、子供のように泣いて、僕に怯えて。そんな人間に誰が期待するだろう。“どうすればいいのかわかんない”だって? 今更なぜそんなこと言えるのか逆に聞きたかった。

 狂人役の舞台役者みたいな清水センセしか見たことがなかった僕の頬に最後に触れた指。あれが初めて見る清水センセの本来の自然な仕草だった。彼がようやく僕が「あなたをこの上なく必要としている」ということに気がついてくれたからだろう。僕こそが「どうしたらいい?」と言いたかったのだ。ずっと。

 だが、本当は僕のほうがどうかしてる、と昨日の自分の告白が再び脳裏を横切った。嘘をついて拉致した挙句、最低最悪の上映会に僕を縛り付け、絶望と吐き気の淵に叩き込んだ狂人をここまで必要とするなんて。己の、死への絶対的とも言える飢えの深さを思い知る気がした。死への飢餓。なんて矛盾した観念! 僕こそが心底イカれてる。その僕だからこそ清水センセの嵐のような狂気に呼応した。いや、すでに渇望している。違う、それを佳彦に見捨てられて以来ずっと渇望してきたのだ。その結果、どんな人間とも関わってはいけないという僕の禁忌は彼は彼の存在の前にもろくも崩れ去った。僕に意識を向けるすべての人を追い払ってきた僕が、奇跡的に彼だけは巻き込んでもいいと思っているらしいことがそれを証明している。そうだ。なぜなら彼だけが、その禁忌もろともこの僕をこの世から最速で葬ってくれるのだから。死神の力が発動する前に死神の依代である僕をこの世から消し去る。彼は僕にとって英雄であり救世主であり殺人者である。隣人への愛で罪を犯してくださるのだ。まるで律法に背いて安息日に病人を癒やしたキリストみたいに。そして僕をこの世から消すことで世界をも救済する。なぜなら僕という死神に関わってきた人たち、そして今後関わるであろう人たちの命を救ってくれるのだから。