僕を止めてください 【小説】



 凍死した自殺者の呟きを無理やり聴覚から遮断しながら、僕はフラフラと職場を後にした。いつもの通り自宅マンションの自転車置き場に自転車を停め、いつもの通りエントランスを抜けてエレベーターに乗り自室の階の数字のボタンを押し、いつもの通りエレベーターが開くと、いつもと同じように僕の足は自分の部屋へとエレベーターホールの角を曲がって長い廊下に出た。
 なにかが廊下の端に置いてある。
 粗大ゴミだろうか? その大きめの黒っぽい塊は、人がうずくまっているようなサイズだった。するとその黒っぽい塊は、僕の歩く音に反応したのか、不意に顔を上げてこちらを見た。動くし顔があるのだから、つまりそれは人がうずくまっているということだろう。夜の薄暗い長い廊下の半ば、顔ははっきりとしない。しかもそれはどうやら僕の部屋の前あたりのようだった。それがわかった瞬間、僕は思わず立ち止まった。

「行かないで、裕くん!」

 うずくまった人であろうその黒い塊は、立ち止まった僕にそう呼びかけた。

「話を聞いて裕くん」

 そう言うと黒い塊は縦に伸びた。つまり立ち上がった。黒い人はグラグラと左右に変に揺れながら、ゾンビのようにこちらに両手を突き出して近づいてきた。まぎれもなくそれは清水先生だった。僕を“裕くん”などと呼ぶ人は彼しかいない。思ったよりも早い再会だな、と僕は思った。自宅を教えたことはないけど、そんなこと多分ずっと前からバレてるんだろう。

「僕が悪かったんだ・・・お願い逃げないでそこにいて!」

 意味不明な懇願と同時に迫り来るゾンビからは、この前の夜の威圧と支配に満ちた雰囲気は微塵も感じられなかった。今まで見たこともない憔悴しきって絶望に満ちた顔、しかも目は真っ赤で泣き腫らしている。逃げないですよ、清水センセ。どうしたんだろう。しっかりして欲しい。

「裕くん・・・お願い・・・許して!」

 廊下に響き渡る声に僕は気がついた。ああ、この音量はヤバいかも知れない。これ以上騒がれるとここの住人にクレームを入れられるかも知れない。僕は近づいてきた清水先生に比較的つかつかと歩み寄った。めったに見せない僕の積極性に感動したのか、彼は目を見開いて倒れこむように突き出した両手を僕の頸に回し抱きついてきた。

「ああぁぁ! 裕くん! ごめ・・・うぐ」

 僕の名を叫ぶ迷惑なその口を、そのまま僕は力いっぱい手のひらで塞いでいた。そしてもう片方の手で彼の後頭部を押さえ、耳元で告げた。

「黙って、こっち来て下さい。ここで叫ばれたらマジで迷惑ですから」
「んんん〜!」

 僕は力まかせに部屋の前まで彼を引きずり戻し、片手で彼の服を掴み直すと急いでもう片方の手で鍵を開けた。ドアを開けるやいなや清水先生を玄関に突き飛ばし、その勢いで内側からドアをバタンと閉じた。慣れないとっさの行動にアドレナリンが分泌したせいか、心臓の鼓動が早鐘のようにバクバクしている。振り向くと清水先生は玄関の上がりかまちに突っ伏していた。