僕を止めてください 【小説】




 読み終わってそのまま携帯を閉じた。今の僕の状況では、たった一文字の返信をする気力もなかった。無視する以外に術がない。だが、このタイミングで佐伯陸が生きてることがわかり、死にそうにもないこともわかったので結果オーライ、良しとするか、という気にはなった。この期に及んでも他人の心配をしてるんだなぁと、自分でも少し意外だったが、よく考えてみれば、僕は他人の心配ばかりしているということを思い出した。人が死なないようにすることに人生の半分以上のパワーを傾注しているような気がする。

 しかし、もうすぐそれから解放されるのかも知れない。再びドクター清水の顔が脳裏をかすめると、なにもかもどうでもいい気持ちと虚脱感が一瞬で意識を支配した。もともとなにもかもがどうでもいい人間なのに頑張りすぎたんだ。と、僕は自分に労りの言葉をかけた。できっこない社会生活を、普通に送っているふりをするのはもう終わりでいい…

 不思議なことに、僕はどうしてか彼に生きて欲しいという、普通の人たちに対するいつもの願いがすでにもう消えていた。あの夜、いつもの「あなたが死ぬから僕に近づかないでくれ」という忠告が一切の効力を失って、しかも僕の動機ごとその意味すら失ってしまった。それは彼が、今まで出会った全ての人の中で唯一、僕が死んでいることを、僕の望みを、僕が失ったものを、僕の呪いを理解してしまっていたからだ。あの凄惨なリベンジポルノの中で、戦慄の中で、僕はそれを上回る衝撃を与えられた。僕がこの世で最も期待していなかったそれを。

 いつの間にか、なにも考えられなくなる。それほどの衝撃だったのだ。衝撃の連打。パンチドランカーだ、今の僕は。小島さんも寺岡さんも幸村さんも、境教授も、母にも、僕の守らねばならない肖像画のすべてにこの衝撃は亀裂を入れた。そんなこと今まで一度もなかった。すごいことだと思った。すごい…清水先生…あなたって。あんなに最悪で狂ってるのに、たった一晩で僕をリセットしてしまうなんて。

 すると、あの惨劇とも言える彼との記憶がリフレインし始めた。なぜか僕の心臓はふたたび発作のように動悸を始めた。

(僕は、動いている屍体を初めて見た…君は生きているのに死んでいた…誰もそう言わなくても僕にはわかった。永遠に腐らない屍体みたいに、君は生きながらにして死んでいた! 有り得ないだろう!? だがその少年は実在した。そしてその少年に一瞬で恋に落ちた)

 あまりの心臓の苦しさと、昼休みだということをかすかに思い出して、僕はその記憶を遮断しようとした。しかしそれは儚い抵抗だった。

(説明なんか要らない。僕にはモニター越しにでもはっきりわかった。君が生者の世界には馴染まない身体と心を持ってるって。そして君は弄ばれた…あの男に)

 止まらない。

(理由なんか知らない。ただ僕は君のことがわかった。それはきっと僕がどうしようもないほど、屍体を愛してるからなんだと思うよ…)

 屍体を、愛してるから。

 僕の内側から押しとどめることの出来ない圧力が掛かって、心臓が押し潰されそうになった。胸元を掴み、前かがみで耐えながら短い呼吸を繰り返す。どうしたんだ? 弄ばれたんだろ? 致命傷の殴打を何発も撃ちこまれて一夜でボロボロにされたんだろ? 震えが止まらないほどの恥辱を与えられて逃げ道も塞がれて、言いなりにされたんだろ!?

 ぼくは、なにを。