(あとで君にプレゼントを贈るよ…待っててね、裕くん)

 ドクター清水はにっこり笑って僕を車から降ろした。なぜこんなにあっさり帰してくれたのか僕にはわからなかった。約束通り身体を弄ばれることもなかった。これ以上僕に負担を掛けないほうがいいと思ったのだろうか。再起不能なリンチだったという気がするけど。

(じゃ、またね)

 いつの間にか車は去り、僕は呆然と自分の大学の裏門の前に立っていた。一瞬ここはどこなんだろうとあたりを見渡すと、いつもの校舎がまるで初めて見るビルみたいに見えた。夜はもう2時を回っていた。入り口は無人で、僕のふらついた足元から鳴る靴音だけが耳についた。自転車を回収する。ふらついて乗れる気がしない。それよりも風を切る自転車のスピードに気持ちが耐えられそうになかった。結局、乗らずに一歩々々自転車を押してマンションまで帰った。自転車置き場に自転車を停め、誰もいない真夜中のエントランスへ続く階段を重い足で上り始める。

 いつだったか、真夜中、やめたはずのタバコをふかした大きな男がここでボロボロの僕の帰りをずっと待っていた、そんな記憶が不意に甦った。愕然とする。なぜ今それを僕は思い出すのか、あの時の倒れかかった肩の厚さとか、掴んだスーツの感触とか、苦々しい嫉妬の顔だとか、どうでもいい記憶のくせに僕がなぜここで、こんな打ちのめされて、独りで…

 霧散していく思考と記憶の断片。いきなり数段しか無い階段につまづいていた。スネをしたたかに打ち付けて、段差を跨いだ四つん這いのままうっ…と呻く。立たなければならないのかな…このままここでしばらく倒れていたい。手の力を抜いた。階段に預けた頬にひんやりとした石のタイルが僕のわずかな心地よさに貢献した。体温を奪って、視界を閉じて。耳を塞いで、生という寄生虫の言葉から僕の側頭葉を遮断して。あの人の記憶は、誰の記憶?
 
 息を殺して、心臓を止めて。
 もういいでしょ? 始まったものを終わらせて。

(救ってあげられる…僕は君の死を細胞ひとつひとつに戻してあげられる…性欲に汚された君の身体を漂白して冷たい静寂で満たすことができる…狂った君を自分の快楽の道具にしてるあの男には二度と触れさせない…君の望みを叶えてあげられるのは僕だけだよ…裕くん…)

 あなたは良い人でしたよ、幸村さん。でも僕は今日、本当の絶望というものを知ってしまった。どうしていいかほんとうにわからないんです。僕は死神だけど、悪魔っていうのはもっと違うんだってこと、今日知った。もう逃げられないんだってことも…