その時、僕の目に彼の下半身の鮮やかな赤い死斑が飛び込んできた。凍死の死体の特徴だ。ああ…赤い…意味もなくその色が目の中で踊った。僕は両手を死体に添えたままその色をずっと見ていた。時間を忘れて。こんなこといつもの解剖でありえない。誰も見ていない。僕以外。だれもここに、いない。

 X線撮影に続いて外表検査を進めた。そのあいだ僕の頭の中には、彼の恨み言のほかに、壊れた蓄音機みたいにループする自分の声が囁き続けていた。ICレコーダに所見を呟きながら、僕は何度も頭の中の声をレコーダに吹きこんでしまいそうになった。

 だれもいない。だれも。ぼくがくるってもだれもぼくをとがめない…ただきみといっしょにくるうだけ。きみはまんぞくだろう? ぼくをまきこんで…だれもいない。だれも、だれも。

 独りで自殺の死体に向き合ったことがなかった。その事実が、僕の中で膨れ上がった。僕は頭を抱えていた。どうしよう…僕はなにをしようとしているんだろう? どうしようもない、初めて感じるその願望が僕の狂気を加速していった。

(…行くな…戻ってきてくれよ…俺はここにいるから…)

 また彼が呟いた。寂しいね、悲しいね、行ってしまったんだろう、きみが求めている人は。止めても振り向きもしないで行ってしまった…
 きみをおいていくものか。ぼくがここにいる。だからはやく黙ったらいい。黙って、静かに、これからも死に続けたらいい…ずっと…ずっと…

 ふらふらと廊下に出た。