残業でひとり居残っていた。外は早くも真っ暗で気温は低く、冬を待っていた僕にはこのしめやかな低温が心底気持ちよかった。帰る準備をして施錠チェックをしていたら電話が鳴った。警察からの解剖の要請だった。

「ああ、岡本先生か。俺、幸村だけど」

 先生が付いている時は、たいがいが職場から仕事の依頼で掛けてくる電話だ。僕はその声を聞いて少し言葉に詰まった。

「…お久しぶりです」
「そうだな。堺先生は?」
「もう帰られました。僕だけ残業です」
「他のスタッフは?」
「帰りましたが」
「あっそ。こっちも今日は人員が足りなくてな…運ぶだけ運ぶけど。司法解剖よろしく」
「立会いがいないとか?」
「まぁ、そういうことだ…こんなこと滅多にないんだけど」

 独りで解剖が出来る…なんて素晴らしいのだろうか!? 僕はその滅多にない状況を歓迎した。当然だ。

「その方がいいです」
「だろーけど」
「多少時間は掛かりますが、別に構いません」
「まぁ、岡本先生ならどうにかなるな。俺は後からしか行けない。終わった頃に着く感じかな。途中までは居させるわ。2人行かせるから。あと30分くらいで遺体が着くと思う」
「あ、はい。最初の解剖台の移動は手伝ってもらいたいです。あと幸村さんは来なくていいです」
「あのな」
「手続き的にマズいのでしたら止めませんが」
「あたりまえだろ! いやさ、ラークアリーナでRGB32のライブがあるから警備の動員掛かって今人手がないんだわ。おまけに県立精神医療センターから医療観察法適応されてた精神病患者が脱走してんだ、こんな時に脱走するなよクッソ」
「ライブ見たくて、ですか」
「なんでだよ。脱走の動機なんてまだわか…いや、どうだろ。ああ、その線はあるかぁ? あいつドルオタかよ。やっぱ岡本先生は視点が違うわ。で、遺体だけど…」

 褒められたかけなされたかわからないことを言われた後で、事件の説明をざっと受けた。検視では事件性は半分以下ということだったが、所持品が大変少なく財布だけで、金銭は抜き取られていないようだった。遺書がないのと、身元に関する情報がない。普通なら検視で終わるはずが、それで司法解剖となった…
 その話を聞き、僕は独りで解剖が出来ると舞い上がっていた空から落ち始めた。暗雲だ。

「ああ…まぁ、えっと…とにかくよろしく頼むわ」

 幸村さんが言葉を濁して電話が切れた。見る前から悪い予感がした。