「あのね、お医者さんに“自分で切りました”は言えないかと思うのよね」
母親が出かける支度をして僕の部屋に入ってきた。
「保険きかないみたいよ。だからなんか言い訳を考えなきゃ」
そんなことがあるのかと、僕は面倒くさくなった。この傷はリストカットのような一文字ではないので、うっかりやったことにすれば言い訳が出来ないことはない。僕は少し考えてから母親に言い訳の例を提案した。
「例えば…机の引き出しからしまい損ねたカッターの刃がちょっと出てて、そこに手をぶつけたらこんな傷になるかも」
「え? どんな風に?」
「こうさ…」
僕はカッターの刃を出して一番上の浅い机の引き出しの隙間から刃先がこちらに出るような状態でしまった。
「やだ…これ危ないじゃない」
「だから、危ないから僕がここに手首をぶつけちゃったんでしょ?」
「そうね…これいいわね。よくないけど」
「夜中に起きて暗くて見えなかったってことでいいかな」
「わかったわ。裕、頭いいわね。じゃ、早く着替えて」
「うん」
二人で口裏を合わせて近所の外科病院で手当をしてもらう。医療費の支払いが済んだあと、玄関を出たあたりで、母親が大きく息を吸って吐いた。歩きながら母親が安心したように話しかけた。
「ああー、些細なことでも嘘つくのって疲れるわ。でもうまく行ったね。痛くない?」
「痛い」
「縫わなくて良かった。神経も腱も大丈夫だったから良かった」
「がっかりした」
「なんで…よ」
「指が動かなくなったりしたら良かったのに」
「バカなこと言わないの! 怒るわよ」
「バカなことじゃないよ」
「そんなこと言わないの」
「わかった。言わない」
言わなければいいのだろう。なんでも言うのはよくないかもなとその時思った。



