僕を止めてください 【小説】




 遺体袋に入った屍体がストレッチャーに乗せられて解剖室に運び込まれると、僕のザワザワ感は一気に増幅した。僕は目を閉じ、覚悟を決めた。間違いない…

 自殺だ。

 堺教授と例の約束をして以来初めての自殺遺体だろう。僕は息を大きく吸って、遺体袋のジッパーに指を掛けた。袋が徐々に開く。既に眼球のない、骨の露出した顔面が曝け出された。腰に痺れが走り、膝の力がスッと抜けた。その時、誰にも見えない縄が腐敗して溶けかけた頸部に巻き付いているのが見えた。
 
 縊死…だ…

 すでに身体が震えかけている。口元が緩んで短い息が僕の肺を犯す。隣で菅平さんが心配そうに僕を横目で見ている。きっと堺教授が前もってなにか僕のことを話しているのだろう。菅平さんからそんな風に見られるのは初めてで、僕は恥ずかしさに一瞬目を逸した。と同時に菅平さんが静かにいつもの機械的な口調で僕に告げた。

「私が開けますので、移動の指示お願いします」
「あ…はい…すみません」

 菅平さんはそう言うと僕をしばし屍体から離した。僕はそれに素直に従った。早速気を遣わせているが、正直ありがたい。所轄の警察官にストレッチャーの上の菅平さんが全開にした袋の中からステンレスの解剖台の上に屍体を乗せ替えてもらった。皆手慣れた様子で掛け声をかけながら、腐乱の強い屍体を丁寧に乗せ替えてくれる。その間にも、僕の目の前にこの“老女”が、絶望感と激しい戦慄と罪悪感の中で、鴨居に吊るされた縄にぶら下がっているのが既に見えていた。よりによって縊死なんて…あんまりだ…

 鴨居…? 老女?

 震えの中で僕の左脳は現場との矛盾に気づいた。発見は林の中、性別はわからない…なのに、目の前にマボロシ…鴨居…老女。

「…周囲の土…採取してますか?」

 僕は解剖台に手をついて激しい性感で脱力した身体を支えながらいつの間にかそう呟いていた。違う…これ…死体遺棄なんだ…死亡した場所と発見場所が…違…う…

「…屍体の…発見現場…だれか…」
「鑑識がもしかしたら採ってるかも知れないですが」
「今…確認して下さい…無かったら…採取して科捜研に送って下さい…」

 いきなりの要請に班長の警部は面食らった顔をしていたが、すぐに気を取り直したらしく携帯で警察署に電話をした。

「採取してます。分析はまだだそうですが」
「…遺体から出てるガスを分析して欲しいのです…内容もですが…量もお願いします。量が大事なんです…土の重量に対する…ガスの量…」

 それは著しく少ないはずだった。そして僕は下腹部を犯す熱の中で我に返った。解剖を開始するために。