その画像を部屋に置くようになってから、死神に関する信仰というものを僕はインターネットで調べてみるようになった。いままでは死そのものにしか興味がなかったが、“願う”という行為が僕の行動様式に追加されてからというもの、今まで一切僕と接点のなかった信仰というものが、死に対して行われているのかどうかということに興味が湧いた。死を信仰するために神格化したものが死神というものだと僕は推測した。

 死神に対する信仰は世界各地にあって、キリスト教にも道教にもギリシャ神話にも信仰対象になっている死神が存在した。その中でもメキシコにはサンタ・ムエルテ信仰というものがあって、これは『死の聖女』という意味らしい。この聖女は中南米の土着の死神信仰とカトリックが混交されて生まれたものとされる。そして面白いのが、この聖女は信者に道徳や倫理を求めない。それで犯罪者もこの聖女を信仰する。祈願も叶えるし、呪いも叶える。

 その姿は、骸骨が色鮮やかなヴェールをまとい、長衣を着ていて、ドクロ顔のマリア様のような雰囲気らしい。その姿で死神の大鎌を持っている。死の国のマリア…そういえば、佐伯陸に“マリア様”などと変な言われたことを思い出す。僕はその時答えた…死人のマリア様なんていないよ…と。でもいるんだな。死神のマリア。

 死は誰にも期待しない。善悪を顧みない。良い人も悪い人も等しく命を奪われていく。死者に善悪はもうすでに無く、それ故にか純粋な美しさを僕はそこに見る。髑髏の聖女という存在、そしてそれが今、南米でもその他の地域でも信仰者が急速に拡大しているというのは、僕はなにかわかる気がした。そんな話をWEBで読んだ後、僕は自分の部屋のプリントアウトの暁斎の髑髏が、なんだか女の人の骨のように感じた。それは僕にとってあの日から死の象徴が“実の母”になったことにもよるのかも知れない。生まれる前から母の死に抱かれていた僕は、死がネガティブなものであるという意識を生まれつき持たなかったように思えるのだ。

 もっとも死がネガティブなものだと知ったのは、死にまつわる本を読み漁っているうちに、一般的に語られる死が、大抵においておぞましく、恐れられ、避けられ、禁忌で、穢れているものとして描かれていたからだったが、実は僕はそのことについて、ある時期まで興味もなく、意味すらわかっていなかったような気がする。装丁や文章にあるネガティブなイメージが量を増やし蓄積されていくうちに、僕は世間の目が、死をどのように見ているのかが、いつの間にかなんとなく分かってきたようだった。それでもその恐怖を理解するまでには至っていない。死への恐怖ではなく、生への恐怖なら知っているが。自殺者を通じて。