結局僕達は夕方過ぎまで眠り続け、空腹で目が覚めた幸村さんに僕は起こされた。いつもの前の日の残り物も冷蔵庫になく、結局カツ丼が食いたいと言い出した幸村さんの車に無理やり乗せられてどこかの定食屋に行き、大盛りのカツ丼と汁物替わりのきつねうどんとそれにセットで付いてくるいなりずしを平らげる幸村さんを見ながら、量の少ない焼き魚定食をおごってもらって食べた。

 家まで送ってもらい、マンションの前で降ろされて、幸村さんはその足で自宅に帰った。また僕の部屋に上がって、泊まらせろ、などと言われるかと思っていたが、あっさり帰っていった幸村さんを、まだ僕は不安な気持ちで見送った。それでも今日から日曜日にかけて、独りで考える時間をくれたような気もした。そうだ。この特別な一夜は、僕のこれからの熟考と引き換えに過ごした夜なのだ。

 いっぺんに色々なことが起こりすぎて、どこから考えていいか僕の頭の中はグルグルしていた。身体がダルかったので、ベッドに仰向けになって倒れた。隣で眠っていた幸村さんの残像のようなものが現れて消えた。

 最後、辛くなかったのだろうか、あの人は…

 嫉妬が人の心を壊すところを何度か見てきた。禁煙してた幸村さんが自暴自棄にタバコを吸って潰していた時間の中に、どれだけの苦痛があったのだろうか。僕はほんの少しだけ微笑んだ幸村さんの顔を思い出した。いまはそれを信じるしか無いのだろうか。それにはこれから僕が熟考しなければならないその内容が重要になる。

 同じ所で堂々めぐりしているヒマはない。そこには論理の飛躍が望まれた。根底から揺さぶられているこの状況で、その根底を精査する必要がある。

 僕が死神であることをやめられる可能性について。

 穂刈さんという今までの人生において異質な、しかも同質な生き方。鏡を見せられて初めて自分の姿を目の当たりにした怪物のように、それは僕の心に自己認識の書き換えを迫ってきた。なにが同じでなにが違うのか、なぜ彼の言葉が僕を動揺させているのか、どこでどのように僕は動揺したのか…揺らいだのは根底なんだろうか…そもそも僕は、なにを“根底”と認識していたのか。

 不意に僕は隆がリミットを待っているときの、論理上の穴を思い出した。思い込んでいる自分特有の理屈があって、それは自分にとっては整合性を持つ。だが、他者から見れば、その論理構成は必ずしも合理的ではなく、恐れや執着や怒りといったまったく理不尽で非合理的な感情が、噛み合わない論理と論理の隙間をニカワとして当然のごとく繋いでいるチートな部分が見えることがある。その点においては、その理屈は論理的ではないということを客観的な他者が指摘してくれることもある。ちょうど僕が煮詰まっている隆にそれを指摘したように。

 なにが僕に起こったんだろう…このたった、たった一晩の間に…

 僕はそのとき、自分のことを俯瞰してくれる論理的で客観性のある誰かを望まずにはいられなかった。あのとき僕が隆に言ったようなことを、前提条件を覆してくれるような一言を、僕は心の底から求めた。ふと脳裏に寺岡さんの顔が浮かんだ。どう思うだろう。僕がこんなことで電話など掛けたら。