引き戻さなければ…ダメージは少しづつ積まれていく。それがある吃水線を超えた時に、重みに耐えかねた船は沈み始める。それが来るのが僕と関わって1年前後なんだと、僕は前から推測していた。人の持つ普通の好悪の感覚と違う僕は、どうやっても誰かの欲しがるものを差し出すことが出来ない。欲しがるという感覚がまずよくわからない。
欲しい物が手に入ることを人は期待する。自分のせいだとわかっていても、自分がした期待に押しつぶされる。僕は砂漠の塩湖のような人間だ。渇ききった旅人が砂漠で透明な湖を見つけ、飲めそうだと近づいてくる。透明な水に目を奪われ、掬って一口飲んだ瞬間、それは濃い塩水だと知る。そして口にした瞬間、今までより更に渇いていく。透明なのは、塩分濃度でプランクトンも魚も死滅して棲めないからだ。僕は静かなオアシスに見えるのかも知れない。でも僕を飲み続けると、1年後には死が待ってる。
わかっているのに、今この場をどうにもできない苛立たしさ…傷ついていく人を目の当たりにしながら、なんの約束も保証も出来るわけじゃない。その僕がこの一晩限りの猶予の中で、この匂いの記憶を書き換えられるのか、到底無理に思えた。
ダメなのか…
ダメなんだ。ダメだ…僕は、無力だ。だって、その残酷な匂いすら、僕自身が感知することさえ出来ないのだから。そしたら…
もう出来ることはひとつしかない。しかもそれをしたところで、なんにもならない。
僕は幸村さんの背後で起き上がった。僕が動いた気配を感じてかすかに僕の方に首を傾けたが、僕はなにも言わないまま壁を伝ってヨロヨロとバスルームに向かった。
「…どうした?」
廊下で幸村さんの声を聞いたが、僕は浴室に入り、内側から鍵を掛けた。シャワーをいつもより熱くした。
松脂は一旦肌に着くとベタベタして石鹸でもお湯でも落ちない。以前の職場で、製材所で変死した遺体を解剖した時、伐採したばかりの松が積んであり、遺体が下敷きになって、松脂が服や顔にベッタリと付いていた。松脂がついた顔写真と、落とした顔写真を撮るので、先輩が四苦八苦していたが、油は油で落とすという情報がインターネットにあり、オイルクレンジングをドラッグストアで買ってきて使った。
浴室の鏡のついた棚を観音開きに開けた。中にあの、焼損遺体の事件の時の、スティックをなくした際に買ったミントオイルが置いてあった。熱めのシャワーをまず浴びた。身体が熱さで鳥肌が立ち、耳の奥がジーンと言うノイズでいっぱいになった。ミントオイルを手に取り、傷口に沿って塗っていった。これで松脂が溶ける。匂いも、ミントで流れてくれたらいい。鈍感な僕でも、傷口に直接希釈しないミントオイルを塗りこむと、ジンジン沁みてきた。だが身体の全面に塗りこんでいくと、肌の上で固い樹脂が手のひらに突っかかる感触が溶けていくのがわかった。ドンドンと浴室のドアを叩く音が聞こえた。幸村さんがなにか言っているが、耳の中のノイズで内容はわからなかった。



