「マツ…ヤニ?」
「ああ。何の匂いだ? これ」
「匂い…しますか。僕、嗅覚ほとんど働いてないので…まったくわからないんですが…」
温泉の匂いだろうか? だが温泉が松脂の匂いなどするわけがない。幸村さんは胸の傷と、傷のない二の腕に鼻を近づけて、また匂いを嗅いだ。幸村さんの鼻の頭や髪が肌に触れるたびにゾクッとして、身体が勝手に震えた。まだ終わらない。
「傷口だけか…? なにか塗ったのか」
それを言われ、僕は穂刈さんから傷用の軟膏を塗られたことを思い出した。
「そう言えば…塗られました…傷薬」
「あの…あの電話の野郎にか?」
「…ええ」
「自分で切って…かよ」
「血がすぐ止まるとか…言われました」
「なんだそりゃ。意味わからん…なんだそれは…」
幸村さんは腹立たしげに首を横に振った。
「また…会うのか?」
そして眉間にシワを寄せてため息をついた。
「いいえ。お互い1回きりの約束でしたから」
「そんなの、どうにでも変わる」
「いえ、もうここには戻らないそうです。遠くに行くそうです。だから…最後の日だと」
「そりゃ残念だったな」
幸村さんは嫌味にそう言った。
「いえ…それだから良かったんです。僕もその人もその条件が一致したから」
「クソ野郎め…」
「…そう…思います」
「お前もだ! この大バカ」
「そう…思います」
それを聞くと幸村さんはチッ…と舌打ちして。苦い顔をし、ベッドから起き上がった。
「思ったよりキツいな…」
「ごめん…なさい…」
「いまさらだろ…俺の自覚が足りなかったわけだ…畜生」
ベッドに腰掛けて僕に背を向けると、幸村さんは独り言みたいに呟いた。そして自分の額に右手を当てた。
「これから松脂の匂いを嗅ぐと、俺は今日のこの日というやつを思い出すのか…」
それは寺岡さんの言っていた記憶と匂いの関係そのものを表していた。記憶と情動を司る大脳辺縁系。そこに達する嗅覚の状況は、強烈にその匂いにまつわる記憶と感情を惹起する。ミントは僕に有益な効果をくれるが、幸村さんにとっての松脂の匂いは、この嫌な感じを思い出させる不利益な情報となってしまった。それは幸村さんの心理の中で、とても非道い条件付けと言えた。幸村さんの背中を見ながら、僕の中にこの記憶をどうにかして書き換えなければいけないという切迫感が急速に広がっていった。



