僕を止めてください 【小説】




 わかってないはずの幸村さんが言ったその言葉は、僕の問題を正しく理解していなければ発されない言葉だった。理解した上で僕を助けようとしてくれている、今までにない幸村さんに、僕はどうしたら向き合えるのかわからなかった。

 僕は答えられなかった。今、抱き締められたら…僕は…どうなるんだろう。どうしていいかわからなくて、錯乱するのだろうか。だが、ほんとに? どうなるんだ……僕はいま、どうしたらいい? 絶望と信仰の間の谷間に墜ちて、身動きが取れない足を折った臆病な鹿のようだ。元の山にも戻れず、新しい山に登る道も知らない。差し伸べられた手を握った後、どうなっていくのかもわからない。

 だが、他の男に抱かれた僕をこんな夜遅くまで待ち、傷つきながらここに座らされて、それでも僕をどうにかしてくれようとしている幸村さんを、今までのように関係ありませんから帰って下さいなどと今の僕に言えるわけもなかった。だからといって不確実な未経験のゾーンに突っ込んでいけるほど、僕の抱えている問題は僕にとって軽いものではなく、それなのに僕は、この墜落した谷間で言える最高の意思決定を強いられていた。

 僕は今まで何を基準にしてあれらの行動をしてきたのだろう。思い出せ…考えろ…確実なものは何かってことを…何を?

 そう、エビデンスを。

 エビデンスとは、一般的には「科学的根拠」という意味だ。つまり実験の結果を基に「根拠がある」と考えられる事柄を指す。医療行為においては、治療法を選ぶときに、少しでも多くの患者にとって安全で効果のある治療方法を選ぶ際に指針として利用される。

 問い…いま、幸村さんが望む行為を取ったとして、それが早急に最悪の事態につながるのか? 答え…僕の死神の働きが発揮される1年ほどの期間には、まだ届いていないということは言える。問い…1年という期間とは? 答え…単純な平均値の計算による。僕の産みの母がもし僕のせいで出産の直前に死んだとしたら、280日、それは月に直すと9ヶ月と10日ほどになる。父は僕が産まれてちょうど1年で自殺した。隆は付き合い始めてから1年3ヶ月、寺岡さんは手段が曖昧なので、期間を正確には測れない。それでも自死にベクトルが向いたのは1年弱くらいだった。

 それならば…次は現状認識…この今日という日を僕は猶予期間内として妥協できるか? 妥協できるなら何を幸村さんに告げる? 今後の対策と行動…現在の僕の状況の認識をし直してもらったのち、その件について再考を促す…その後僕はこの件に関して、合理的な修正を行う。穂刈さんの示唆と提案を検討して、それが信じるに足るかどうか、今までの方針がなにが間違っていて、なにが正当であるかを、リミットの手前までに明確化し、新たな方針とマニュアルを確立する…それで…それから? それからどうする…?

 考えながら僕の顔はいつの間にか両手から離れ、指先は口元だけを覆っていた。揺れる土台。その上で青ざめる僕。こんな日が来るなんて思ってはいなかった。出会いとは残酷なものだ。いつでも僕は足元から覆される。きっと盤石などというものは思考上の概念に過ぎない。足の下に大地があるなんてただの希望的観測なのだ…きっと。だが僕の人生はいつだってそれに襲われる。だから考えなくては。

 差し伸べられたこの手を…僕はいまどうするか。