三十分後、トミさんの車の後部座席に僕は横たわっていた。トミさんが来るまでに身体にこびりついた血を穂刈さんが風呂で洗ってくれた。傷は穂刈さんの師匠から伝授されたという伊賀忍者秘伝の軟膏とか冗談みたいに言われたものを塗られて、血が止まった。由来は知らないが刃物傷に効くと穂刈さんは言った。茶色いが、肌に伸ばすと透明になった。どんな配合なのかは不明だった。軟膏を塗られているうちに、体の芯にまだ緩く疼いているものを感じてなぜか胸の奥がチリっとした。トミさんが部屋に来ると、穂刈さんは布団の上に座ったまま、無言で部屋を出る僕に笑いながら小さく手を振った。そうして僕達は別れた。
シートに横になっていると景色もわからず標識も見えず、どこの温泉場か、結局帰りも定かにはならなかった。揺られて皮膚がシートに擦れると、少しヒリっとした。とはいえ、自分でカッターで切った時より、ナイフの切れ味のせいか軟膏のせいか痛みは少なかった。ただ、首筋の左右の傷がシャツの襟よりも上についていて、仕事場でそれを隠すには包帯か、バンソーコーかどっちを使おうかとそんな下らないことを考えていた。穂刈さんのことはもう考えたくなかった。
「好きなんすか…兄貴のこと」
考えたくないのに、それまでずっと黙って運転していたトミさんが、いきなり僕に尋ねた。
「いえ…僕は今まで恋愛感情を持てたこと、一度もないんです。穂刈さんのこと…好きか嫌いか…僕にはわからないんです」
「好きじゃなくても、抱かれるのかあんたは」
「ええ…発作が起きてる時は誰でも…誰でもいい」
「はぁ。ビョーキだな、あんた。ヤク中じゃないなんて信じらんねぇ」
「ええ。僕もそう思います。ヤク中のほうがマシかもしれません」
「でも穂刈さん…あんたのこと、気に入ってる」
「でも、穂刈さんだって…誰でもいいんです…遊びですよ僕は」
ああ、安心して。トミさんの恋路は邪魔しないから。僕が邪魔しなくても成就しない恋路を妨げないことに何の意味があるんだろうと思いながら、それでも僕はトミさんの嫉妬が緩和できることを願った。
「それでも…心の中にいるんだよ。逢わなくても、ずっと」
トミさんは簡単な言葉でそんなドキッとするようなことを言った。そして山道のカーブを減速もせず荒っぽく切り続けた。ドリフトの音が山に響いた。僕は狭いシートの上を転がされていた。さすがに傷が痛い。トミさんの運転はこのままガードレールを突っ切って、車ごとダイブしそうな勢いだった。
「オレは、一緒に行きたかった…もう今日で最後の日なんだ。でもオレ、あの人の足手まといになるだけで、なにもできねーんだ。あんたにくれてやる時間はあるのにな」
「僕だって、同じですよ…誰だってあの人の足手まといですよ」
「ああ…そうだな」
「後腐れなく行きたいから僕だった…それだけです」
「ああ…そうかもな」
なにを言って取りなしたところでトミさんは明らかに怒っていた。僕のせいだろう。僕は人を怒らせるのが得意なのだ。どうしよう…そうだ、と、僕はそこで一世一代の嘘をつくことにした。母親も小島さんも推奨の処世術というやつだった。



