「無茶するなぁ、君は」
僕の首は空を切った。いつの間にかナイフはバネが生えたように穂刈さんの手の中に収まっていた。
「なん…で…抜いた…の…?」
泣きながら僕は穂刈さんに抗議した。拭うことの出来ない絶望感は殆ど変わらずに僕を満たしていた。
「ナイフが、君を殺す予定はないってさ」
「じゃあ、手で殺してよ…どれだけ僕が…苦しいか…わからなくても…良いから…」
「君は…死ぬの怖くないんだな。マジで。俺のナイフから逃げないで、しかも自分から寄ってったヤツなんか初めてだぞ。驚いた」
「生きてるのが…いや…なんだ…いつもは忘れてる…でもこうなると思い出す…でも僕は…死ねない…死んじゃいけないから…だから…こうなる前に…なんとか抜いて…やり過ごさなきゃ…なんない…なのに…」
「それでメールしてきたのか」
「僕は誰にも近づいちゃいけない…でも…一晩だけなら…って…」
「彼氏作って、慰めてもらえよ。こんな身体で毎回ワンナイトなんか辛いだろ」
「僕に近づくと…皆んな死ぬ…だからカレシなんか…作っちゃダメなんだって…」
それを聞いた穂刈さんは大きく息をついた。
「君もか…やれやれ…他人からこんなこと聞くとはな」
「え…」
そのことを真面目に受け止めてくれた人は初めてだった。
「俺も死神だ。職業も死神、存在も死神。ナイフが俺の主人だ…神だと言っていい。俺の好きな人間は皆んな俺をおびき寄せる人質になって、死ぬ。俺は死ねないからだ。親もそれで死んだ。昔の恋人もだ。だから俺は誰も好きにはならない。俺のために捕まっても、俺は助けたりなんかしない。俺はナイフの言うとおりに生きてる。法律も、義理も、金も権力も情も関係ない。ナイフが言うから俺は人を殺す。殺せと言われてもナイフが俺を動かさないなら俺は殺さない。そしてそれは…絶対に間違わない。仕事はナイフが決める。きっと死ぬときも、な」
そしてフッと笑った。僕も他人から死神という言葉を初めて聞いた。呆然とした。
「君も死神か…」
「ええ…僕ももう親は…いません」
「やっぱり誰も好きにならないように生きてるのか」
「はい…でも僕は…好きと嫌いという感情が…ないです…だから…誰でもいい…」
「ああ、誰でもいい…そのとおりだ」
「でも…あなたは…淋しそうです…」
「そうかい。でも君も、そう見えるよ」
彼は優しい顔をした。そして僕の手足の戒めを片手で解いた。左手にナイフを持ったまま、彼は僕を抱き締めた。背中に当たる冷たい金属の感覚が、僕をわななかせた。その喘ぐ唇を彼は塞いだ。
「死神同士、今夜だけ仲良くしよう。君の恐怖の欠落に敬意を表して…抜いてやるよ」
この背中に沿わせられた桜のナイフが、あの屍体をえぐったのだと僕は確信した。もう一本彼はどこかにナイフを持っている。身長からしてトミさんがきっとこのナイフを借りて、背中からあの売人を刺したのだろう。腸間膜を貫き、腹部大動脈をひと突きにしたのはまだ見ぬ彼のナイフに違いなかった。その時彼は僕を仰向けにすると、いきなり僕の頬にナイフを当てた。
「動くな…遊びたがってる…君と」
ストン。右の首の皮が髪の毛のような細さの氷を当てられたような感覚がした。そして彼は布団の下からもう一本ナイフを取り出した。
「大丈夫…放っておかないから」
それは僕に言ったのか、もう一本のナイフに言ったのか定かではなかった。ストン…左の同じ場所に同じ感覚を伴ってそれは落ちてきた。刃は僕の首筋に両側から直角に当たっていた。まるで標本の虫のように、僕は布団の上に動けないように止められていた。



