やはり今日もベッドまで行けないまま、キッチンの入り口で膝を折った。暑い。朝まで雨が降っていた。昼からは雲の切れ間から日差しが溢れ、水蒸気が街全体を覆った。まるで熱帯植物園の中を歩いているような錯覚に陥ったほど。クーラーのリモコンまで這いつくばって辿り着く。オンにすると自動的にドライがかかり始めた。少しでも風が動くのが微かな救いに感じる。
考えてみれば、ほぼ1ヶ月ぶりの自殺者だった。あの青木三穂以来の自殺屍体。しかもまた水死体だ。それに日数が経っている。所持品が殆ど無いまま警察は歯型と失踪者リストを頼りに身元確認を始めている。だが、山奥の自殺の名所のマズいところは、他県からの来訪自殺者が多く、所持品が無ければ身元確認の範囲が異常に広くなることだ。車でも乗り捨ててあれば良いのだが。今のところ周囲に不審な車輛は見つかっていなかった。バスは1時間に1本。最寄りのバス停は1箇所。地元のバスやタクシー運転手の聞き込みは始まっているようだった。
ダメだね…どうにもできないね…なにも変わらないんだよ…もう終わりなんだ…耳の中の死者の囁きは一向に消せず、同時に蒸し暑さでぐったりした身体をいやらしい痺れが不定期に襲う。せめて冷たい牛乳を飲んでおきたい。最近は自分でするより先に幸村さんが僕を解放することばかりで、それが更に自分で処理する感覚を摩滅させている。他人の手、他人の口、舌、その違和感…それに引き換え自分で触る感触の鈍さ…それに今日もまた失望していた。
冷蔵庫にすがりつき、震える指で牛乳パックを掴む。コップを持ってくる余裕がない。1リットルの3分の1ほど残っている牛乳をパックに口を付けて直接飲む。いきなりガバッと口に入ったそれをうまく飲み込めずに吐き出すこともできないままひどくむせた。なにもかもが思い通りにならない。幸村さんも今日は僕が自殺者と対面している情報を持ってないだろう。所轄は違うし、このところ教室への強行班の出入りはない。少しホッとした反面、自分で処理しなければならないことに、とても億劫な感覚が浮上してきてちょっと焦った。幸村さんのあまりのしつこさに、彼がこの場面に居ることの常態化が起きていて、その感覚にどうも慣れてしまったらしい。術中にハマっているのか、僕が彼を退ける努力が足りないのか、どっちにせよ、今はそれを考えているゆとりはなかった。



