僕を止めてください 【小説】




 それはダムから揚がった遺体で、すでに全身が膨れ上がっていた。◯◯郡の山の中の県でも有数の水瓶であるそのダムは、自殺の名所としても知られていた。だから自殺と見せかけた死体遺棄の現場としても有名だった。自殺や死体遺棄、殺人などを防ぐために近年立入禁止地区に指定されたが、それを越えて侵入し自殺するものと遺棄が年に数件はあるということだった。水死体かどうか、殺されてから遺棄されたのか、事故ではないのか、犯罪性があるのか、身元をどのように特定するのか…水死体はいつも難題を法医学者に突きつけてくる、高度な鑑別の要る屍体だった。

 絶望感が押し寄せてくる。どこをどうしても打ちのめされて震えるだけ。僕は…無力だ。

 堺教授はこの遺体を当然のように僕に割り振った。先週から裁判の証人となっている堺教授は、医学部の授業と解剖、そして裁判所への出頭でクタクタになっている。僕もその状況の中でこの解剖を受け入れないという選択肢を考えてはいなかった。考えていなかったが、なにかそれ以上の策があるわけでもなかった。午前中に受け入れを菅平さんが行い、午後からの解剖に向けていつものセッティングを十分に行い、一旦始まったら最後まで集中を切らせない。ルーティンを怠らない。周りに気取られない…そして…

 あとは性の衝動だけが詰めこまれた抜け殻を家に帰すだけ。さっきから屍体の声が耳の中で繰り返す…ダメだ…もうダメだ終わりだ…ダメだ…ダメだ…ダメだダメだダメだダメだ!ダメだ!!

 その声を消せないのをわかっているのに、思わず耳を両手で塞ぐ。なぜだろう。解剖台の上でずっと叫んでいる。あまりに執拗なその絶望感が、いまだに僕の耳を奪い取って僕にずっとそれを聞かせている。まるで僕がこのことに絶望しているのをわかっているかのようだった。そうさ…ダメなのは君だけじゃない…僕も一緒だ…ダメだよね…そうだ…ダメなんだ…ダメなんだ…

 この無力感。この自殺者の男性は現状に容易に敗北したまま挽回という感覚も観念も生まれつき持たないまま生まれてきてしまっているかのようだった。その生まれつきとも言える圧倒的な無力感にこれまた容易に引きづられている僕。下腹部の淫らな熱の塊が冷たいはずの脳を混乱させ、意図的にコントロール不能にしているかのようだった。今日は下腹だけじゃない。解剖開始からすぐ、直腸の奥から臀部、大腿、膝と、立つことを許さないかのような脱力感と性感が下半身を上から下へ蝕み続けて今に至る。激しい動悸で心臓が肋骨を叩いている。それに合わせて股間で性器が律動する。

 家のドアにしがみついて開けた。そして内側から鍵を掛けた。