僕を止めてください 【小説】





「え…だって金瘡の研究だよ、私の卒論」

 今更なんで? と言わんばかりに堺教授は笑った。金瘡とは刃物に依る傷、古くは刀傷のことである。

「えと…なんで金瘡の研究になったかってことなんですが」
「中学校からの日本刀マニアだから。あれ、知らなかったっけ?」
「はい、知りませんでした」

 他人の趣味などを僕が知っているはずがない。しかし僕の言葉などに1mm足りともめげず、堺教授は僕がそれを知らなかったことが嬉しいような顔をした。つまりそれはそのことを語れるからだろうか。

「私の家の包丁、全部私の製作だから」
「え…」
「夏休みになると備前まで行って作るのよね〜。備前長船ですよ兼光ですよ〜いや〜古刀は良いねぇ。やっぱり鎌倉時代のがそそるねぇ」
「はぁ…それは…知りませんで」
「見たいでしょ? 見たいよねぇ、私の鍛造した包丁。わかった。今度持ってきてあげよう〜」

 こんな目のランランとした楽しげな堺教授は初めてで、僕は解剖室で執刀する堺教授が次から違って見えるんじゃないかとさえ思った。まさかメスまで自家製じゃないよね。と思いきや、いきなり僕の顔を見てニコニコし始めた。

「そしたら、今度メスの研ぎ教えてあげようか?」
「は? ステンのディスポは研げないでしょう?」
「私はハマー社のしか使いませんよ。ウイロニットのステンは18-12だからねぇ。耐熱温度300℃よ。最高ですよ。ドイツの職人が1本1本手作りで作るんだよ。オートクレーブでOK! それでね…」

 メス一つでも、止めなければ止まらないオタクの話のようだった。日本刀だけじゃなく、刃物全般がお好きならしい。

「ああそうですか。僕あんまりこだわらないんでディスポでいいです」

 ディスポじゃなきゃ家に持って帰れないし…とは言えなかったが。堺教授はつまんなそうな顔をして軽く僕に抗議した。

「ええ〜…そうかぁ…若い子はドライだなぁ。6000円ぐらいで買えるのに」
「それ…僕みたいな研究員の給料じゃ無理ですよ。そんな消耗品に自腹切れません」
「いやいや、自分の気に入った道具でやる仕事はモジベーション上がるって」
「それ、一般論に見えますが、あくまで教授のご趣味ですから。僕は遺体があるだけでテンション上がりますんで要りません」
「テンション…岡本君のテンションて? どこにテンション?」
「いや、あの、それは、自分にしかわからない…アレですから」
「そうだよね。岡本君とテンションって言葉合わなさすぎて、何かの間違いかと思っちゃったよ」
「テンション…言葉の綾でした。失礼しました。そのとおりです」

 すると教授は目を細めてこう言った。

「…あの腹部の傷のナイフ、手入れがとっても良くて、切開面が半端じゃない美しさだったよ。犯人さんは凶暴な犯罪者だけどね…私は刃物好きとしてこの研ぎと刺入の手並みはちょっと鮮やかで見惚れるね…ああ、これ警察の皆さんには内緒ね」

 恍惚とした顔からいきなり我に返った堺教授は、苦笑しながら人差し指を口の前に立てて、シーと言った。隠している教授の狂気が、さりげなく浮かび上がって消えていく瞬間を見てしまったようだった。人は見かけによらないものだと、再びそれを認識した。そう言えば、ここの法医学教室のサイトの自己紹介の欄に、堺教授は『五輪の書』と書いてあったと、本の記憶だけは出来る僕は、これが刀つながりだったのかということをその時認識したのだった。