「やめろ」
「マジですね、裕さんのその声」
「…やめろ」
「え? これはまさかかなりのHP削れるかも?」
そう言いながら佐伯陸は僕の喉仏を人差し指で撫でた。僕は息を呑んだ。あの時の混沌が僕を襲う。この指だ。これを僕が求めていたことを知られてはならない。止めないと…これは止めないと…これが僕を覆い尽くす前に。僕は震える手でその手首を掴んで喉から引き剥がした。声がかすれて出ない。
「触るな」
「おおおー動揺してますかそうですかマジですか!」
僕はさらに興奮しそうな彼の肩を両手でつかみ、ゆっくり押し返した。密着していた身体が離れていく。
「取説の通りに扱わないと、今すぐ出て行くけどいい?」
「あ…ごめんなさい。マジで怒っちゃったですか」
「ああ。もう二度としないで」
「わかった…すみません」
一瞬で神妙な声になった佐伯陸を突き放して、僕は片手を額に当てて深呼吸した。佐伯陸の顔を見られない。彼が悪いんじゃない。僕が耐えられそうにないのだ。今にもその指を引き寄せて自分の首にあてがいたいのだ。あの扼痕と同じ形に…
(クスクスクス)
青木三穂の笑い声が幻聴となって耳の中でこだましたような気がした。しかし有り難いことに、佐伯陸のあの生死を飛び越えるような狂気はすでになりを潜めていた。過去だ。あの時だけの過去の幻影だ…だからこれでもう過ぎていく。佐伯陸の悪ふざけをたしなめて終われる。佐伯陸のせいだけじゃない。僕が真に受けないで済めばいい。
「佐伯君…もう君、死のうって思ってないね」
「え? ああ…あ、はい。いきなりなんですか」
「いや…確認…大事な確認」
「あ、はい…すみません…なんか…やり過ぎちゃった」
「ええ、やり過ぎてますね。いろいろと」
「怒られた」
「怒りますよ。僕が動揺しないから一緒に居れるんでしょ」
「はい。そうです」
「いや…僕も、悪い」
「え? なんですかそれ」
「なんでもない。もうやめよう」
「気分でも…悪いんですか?」
「ああ。悪いね」
衝動と戦うのは解剖室と自分の部屋だけで十分だ。
「取説には…頸部の頸動脈洞付近に触ると、発作を起こして意識を失うって書いてありましたよね」
「ええ。分かってますよね。その上死ぬかもとも書きました。読んでるね?」
「死にたいのにダメなんですか?」
無邪気に訊かれたきわどいマズい質問に、僕は再びそれを振りきろうとした。しかし動揺しているおかげで、言わなくていいことまで言いそうになっていた。



