僕を止めてください 【小説】




 扼頸の痕などこの仕事では日常茶飯事だった。何度も何度も見て、記録して、切り開いたそれ。なのにまた再びここで僕は悶えながら無様に泣いている。こんなことで僕はここまで滑り落ちるのかと。もううんざりだ。小さくしゃがみ込んで顔を両手の中に埋めた。だが、どこをどうしてもこの羨望から逃れるすべがなかった。あの空虚さ…からっぽ…この世を超えられる狂気…支えるものなんてない…笑ってた…青木三穂は意味もなく笑っていた…ごめんねと囁きながら、母の首に手を掛けた…そして舌骨が折れるまでその手を離さなかった…なぜ僕にはいないのか…本気でこの世界を超えるために、僕を息の根を止めてくれる人が…!

 そんなことをここで思うなんて全く予想だにしなかった。いつもなら耐えて持ちこたえる意志のある自分が今日はまったく使い物になってなかった。なにかの留め金が緩んでいて、いつもより少し重いものを持っていたからか、そしていつもより少しだけ早く歩いていたからか…僕は自分で希死を制御できると思っていた。出来る、ではない。しなければならない、と。だが今、僕ははいつも持ちこたえられるところで、脚が砕けたかのように転ぼうとしている。ゆっくりと、地面が近づいてくる。このまま抗わなければいずれ僕はそこに叩きつけられるだろう。そして…

(だったら、一緒に死んでください)

 唐突に声がした。佐伯陸の声が。僕は反射的に顔を挙げていた。そして僕はわかった。なぜあそこまでヤバいほどに持って行かれそうになったか。佐伯陸は首を傾げた。そして微笑んだ。意味もなく微笑んだ。空虚に犯された佐伯陸がそこでからっぽのまま笑った。もうこの世に居る意味がわからないんだ…と。

 だから佐伯陸は僕を送り出せるだろう。佳彦にも隆にもなかった、ボーダーを超えることが可能な狂気と今僕はつながっているのではないか。僕は再び肉体の死に逢えるのではないか。ほんの少しでいい…佐伯陸。頸動脈をその指で押さえるだけでいい。取説の通りにすればいい。細くて子供のような指が僕の首に絡まる。きっと笑っている…あの無邪気な顔で。へぇ…岡本さんて…まだ生きてたんだ…とかなんとか言って…

 教室に戻ろう。僕はそう思った。なぜか少し頭が使えるような気がした。力の抜けた指先でポケットからミントを取り出す。その先端をかじった。欠片を鼻の穴に詰め込む。シャツの袖口で涙をぬぐった。便器につかまって立ち上がる。息は上がってるけど…これで片付けも…できるかな…目をつぶって深呼吸した。

 幸村さん、ごめんなさい。約束できないって言ったから、許してもらいたいな。仕方ないことってあるんだ。僕にも、佐伯陸にも…それが耐えられないなら…あなたが止めることも出来ないほど、この世にはもう居る必要がないって…わかるかな…

 あなたにはきっとわからないね。でもわからなくても、いいよ。あなたはわからなくていい。そのほうがいい。

 誰のためにいままで死なずにきたか、それをなぜかすべて無視していた。その動機を潰したのは、同じ行為を成功させた青木三穂の屍体だった。自死に失敗した彼の記憶がまるで成し遂げられたかのように上書きされたみたいだった。もう聞かなくて済む。水の流れ続ける音…嘔吐の音……もう…しない?…かわりに…波の音…そして…嗤う声……