僕を止めてください 【小説】





「心療内科で薬を飲んでたようだが、もう最近は通院もしてなかったそうだ」
「なにか…ご質問はありますか?」

 僕はどうにかしてこの時間を早めようと、プロセスを追った。

「他殺の可能性は?」
「全くないとは言い切れませんが…他殺の痕跡もいまのところはありません。争った形跡は無いですし、生活反応のある皮下の打撲痕もなく、血液の薬毒物なども検出はなかったです。今回現場の海水と遺留品と思われる靴を鑑定しますので、結論はそれを待ってからですが…保険金などはいかがですか?」
「特にないな…土地もない、財産も殆ど無い。父親の借金で全部持って行かれちまったからね、青木さんところは…おかげで結婚も出来なかったみたいだから。父親は脳卒中で50歳で急死。そのあと40代から母親の介護…10年もね。あんなに男子に人気のあった青木先輩がこんな生活送ってるなんて、卒業後誰も予想しなかっただろうな…」

(からっぽだわ)

 頭の中に笑い声と共に声が響いた。

(支えるものなんてなんにもない…は…あはは)

 耳の中の音と現実の音が混じってくる。膝から落ちそうになりながら僕は撤収に入った。

「よ…よろしいですか…?」
「ああ、特に違和感はないな…報告書の通りだ。ありがとう」
「それではこれで終わらせていただきますが」
「倉持警部補は?」
「ああ、大丈夫です」
「4時39分…です」

 僕が終了時間を告げると、菅平さんが「はい」と答えた。

「ごめんなさい…ちょっとトイレに行ってきますんで、片付けてて下さい」
「分かりました」

 僕は震えを抑えながら手袋を急いで外し、歩きながら白衣を脱ぐと、そのままトイレに直行した。もう耐えられる限界を超えそうだった。トイレまで走りながら僕は涙ぐんでいた。どうしよう。どうしたらいい? 激しい性欲の中でそれを超えるほどの羨望。

 なぜ僕はああなれなかった…?

 首の中の壊れた骨…黒くなった指の痕…溢血斑…あれは僕のものだった…だったはずなんだ…この衝動ごと殺してくれるはずだったじゃないか…! なのに…

 僕にはその機会が二回あった。そして二回その機会を失った! 僕なら…僕ならそこを触るだけで…触るだけで逝ける…触ってほんの少し指を立てれば僕はもうそれで逝ってしまえるんだそれなのにそれなのにそれなのに!!

 トイレのドアがバタンと大きな音を立てて閉まった。お決まりのようにドアの裏にもたれた背中がタイルの床目掛けて滑り落ちていった。