彼女は少し笑っていた。意味もなく笑っていた。

「では…始めます」

 二体の遺体に一礼し、皆でいつもの通り合掌した。胸の奥が灼けつくように痛い。二度目なら慣れてもいいはずなのに、そんなことは決してない。せめて視線の中に入らないよう、僕は2つの遺体の間に入り、彼女に背を向けた。

 外表検査の所見を記録係の菅平さんに告げていく。やはり背後から彼女の気配がする。クスクスという笑い声と共に、背を向けたうなじからざわざわと虫の這うような禍々しい感触と音が湧き、それが背骨に沿って下に降りていった。椎骨を数えているようにひとつひとつ…それはまるで『Suicidium cadavere』を初めて読んだ時に、隣で僕の背骨をゆっくりとなぞっていた佳彦の指のように。頭部の所見が終わると同時に目の前の遺体の首に着けられた指の痕に、僕は言葉を奪われていた。ヒクッと息の塊が気管を鳴らした。誰かに聞こえただろうか…僕はゆっくりと目を逸らした。心臓の音が頭の中に膨れ上がった。

 それは想像をはるかに超えるほどの激しい羨望だった。それをすれば僕は一瞬でイケるそれをすれば僕は向こうに戻れるそれをすれば僕は…僕は…僕は…羨望をその中に取り込んで増長した虫が尾骨を超えて性器にまで到達しつつあった。もう飲み込まれる。意識を保つことだけに集中するしかなかった。

 死斑は腐敗によって不明瞭と成りつつあった。冬季の遅い腐敗もそれなりに進んではいたが、体表はミイラとまではいかないが乾燥も進んでいて、死後20日はゆうに経っている感じだった。両手両足に拘束痕があった。幅広のバンドのようなもので縛ってあったような。解剖を始めると、脳はすでに液状化していた。頸部は舌骨と甲状軟骨の骨折が見られた。腐敗が少なく乾燥していた皮下には内出血痕が見られた。これは扼殺の重要な決め手になる。内臓の自己融解が進んでこれも液状化していた。液状化したものをサンプルとしていくつか試験管に取った。落とすな…指に力が入らない…取っただけであとは菅平さんに渡し、封をしてもらい、シールも書いてもらった。

 ようやく腐敗屍体の解剖が終わり、遺体の本人特定と、親子鑑定のためにDNA検査をすることになった。資料を取り、菅平さんに科捜研用にまとめてもらう。そしていよいよ、井上警部に娘さんの遺体を説明することになった。頭の中でクスクスという彼女の笑いがずっと回っていた。身体の焦燥感とその笑い声で、僕はすでに気が狂いそうになっていた。そう言えば井上警部は、解剖中ずっとなんとも言えない困った顔をしていた。その顔でこの遺体の前に佇んだ。

「実はね、この方、青木三穂さんて言って…私の高校の先輩だったんだよ」

 思わぬ事実が警部の口から出た。倉持警部補が下を向いた。その顔つきは僕のせいではなかったようだった。

「私のいた野球部のマネージャーさんで、よく世話になった。明るくて賢くて面倒見の良い男子部員の憧れの先輩だったんだが…こんなところで再会するとはね…仕事とは言え…今回はなんとも言えないな」

 井上警部はため息をついた。そして両手を合わせて、少しだけ黙祷した。

「お母さんが早くからアルツハイマーで、最初の頃よく徘徊してたらしい。近隣の交番ではどこも青木親子を知らない巡査はいなかったていうくらいだったらしいね。介護疲れで何年か前から鬱になって…」

 胸に何かが刺さるような感覚がした。もうこれ以上乗せられたら崩れそうな気がした。