僕を止めてください 【小説】




 他人の家なんて何年ぶりだろうと思いながら、僕は佐伯陸のマンションに居た。最新の二重オートロックで、大きな監視カメラが進路ごとに死角が無いように設置されていた。

「面倒くさいけど…仕事柄…ね」

 と、苦笑いしながら佐伯陸はディンプルキーを回してドアを開けた。このマンションはこの街で一番の高級マンションとなる。築3年。ただでさえ広い空なので、この高層マンションが目印になって、駅に向かう来訪者も多いし、あれを目印に行けば駅まで行けるとかお客さんにスタッフが話しているのを聞いたこともある。だってどこからでも見えるのだから。

 独り暮らしには大きすぎる部屋だと思ったが、2LDKのうちの1部屋はパソコンの部屋で、機材と本と書類に埋もれいるらしい。広いリビングのソファには大きなクマのぬいぐるみがすでに着席していた。

「ただいま! アラン!」

 と叫んで佐伯陸はボフッとクマに抱きついた。アラン。フランス熊か?

「紹介します。アラン・チューリングⅡ世、ボクのスーパーバイザー」
「チューリング・マシンの?」
「そうそう! 岡本さんコンピュータ詳しいの?」
「多少勉強した程度。プログラムなんて出来ないですよ。コンピュータの歴史とかは読んだ。それで知ってるだけ」

 アラン・チューリングはコンピュータの父とも、アルゴリズムの生みの親とも言われている数学者だ。ではこの熊はイギリス熊だろう。

「アランはアスペルガーだったとも言われてるし、それにゲイだったんです。18歳で好きだった人に死なれて無神論者になった。そして41歳で自殺した。他殺だったとも言われてるけど。リンゴに青酸染ませて食べて死んだの。ボクとよく似てる。生まれ変わりかも知れないって思うこともあるんです。当時の捜査に岡本さんがいたら、自殺か他殺かわかったかもね…」

 と、少し憂い顔で佐伯陸は最後にそう呟いた。

「いつもアランに相談する。数式がうまくまとまらない時も、淋しい時も、いつも彼に話してる…あ、座って」

 僕は隣に座った。自分の部屋に帰ってきただけで、佐伯陸は少し元気になったような気がした。内弁慶というやつなのかも知れない。テリトリーに帰ると調子が出るような人かも知れない。

「何か飲みます?」
「では、水を下さい」
「お茶くらい淹れるよぉ」
「じゃあ、なんでもいい」

 佐伯陸はハッとしたように、テーブルの上に置いた僕の取扱説明書をめくった。

「…えと、確か書いてあったですよね…あ、あった。『4.脳の働きが一般的でないため味覚と嗅覚が鈍感なので、好き嫌いはない。好き嫌いを訊かれても困るだけなので、適当にあるものを提供して下さい』?」
「正解」

 ちゃんと使ってくれることに感動を覚えた。佐伯陸は本物のアスペルガーかも知れない。

「脳の働きが一般的じゃないって…どういう意味ですか? あ、ちょっと待って、今ペン持ってくる!」

 なんだか興奮気味で佐伯陸はパソコンの部屋と思しきドアの向こうに小走りで消えていった。