僕を止めてください 【小説】




 渇いた喉に水を一杯流し込み、僕はソファにぐったりもたれていた。さっきまでとても静かな時間を過ごしてたのに。なんのフラグでこんなハメになったのだろう。僕は今朝からの記憶を反芻し、フラグの位置を検索した。鈴木さんとの会話を思い出した。“努力します”だろうか? どんな努力を強いられるのかという今後のサンプルなのか? ソファでぐったりしたまま顔も合わせずに遠い目をして宙を見ながら、僕は佐伯陸に質問していた。

「…で、どんなこと言ってたんですか、幸村さん…というか幸村さんとどういうご関係なのでしょうか?」
「前カノ」
「つまり言い換えると…生け贄の前任?」
「ボクはお供え物になったつもりはないです」
「好きだったんですね」
「…ええ」

 下を向いて恥ずかしそうに佐伯陸は答えた。

「で、その前カノさんがわざわざいらっしゃったのは、幸村さんから電話があったからということですか」
「ええ。久しぶりでした。とても久しぶりに電話あったんで」

 そう言って右手で髪の毛をいじった。

「“海保の仕事そろそろ仕上がるのか?”って。ちょうどその直前に県警からボクに確認があって新しい逆漂流予測システムがおおむね今のプログラムで出来るかどうか聞かれて。カッコ仮だったから調整中だって答えたら、調整中でも動かせるんならちょっとサンプルまでにやって欲しいって依頼が来て。倉持警部補って人が大学まで来たんですけど。その時に司法解剖の話が出て」

 それはつまり例の入水自殺の件だった。

「そのことでなんで浩輔から電話が来たのかって思ってたら…今度は浩輔から岡本さんの話が出たので」

 そこでか。

「ボクがちゃんとやってるかとか…元気かどうかとか…心配してるのもわかるけど。嬉しそうに君の話してた。そしたらボクのシステム使えって倉持警部補に言ったの岡本さんだって。ああ、いい仕事してる人見つけたんだなって思ったけど。だいたいそれで好きになる…浩輔の悪いクセです。仕事仲間に手ぇ出すなって思うけど。ボクは好きになっちゃったからひとのこと言えないけど…もう別れましたよ」
 
 大学教授ってなんて物見高いんだろう…と、僕はその共通な性癖に感心した。これじゃ、隆が好きになった中学生を見に来た寺岡さんと変わらない。しかも変態だ。寺岡さんも女ぽいとこあったけど、佐伯陸は更にその上を行ってるし…いや、物見高いんじゃないのか…二人共嫉妬深いというのか、これは。

「ああ、幸村さんとは付き合ってません。僕は生きてるものに一切合切興味が持てない変態なので。だから法医学者になったんです。死んでる人といつも一緒に居られる職場なんてなかなか無いですけど…ここは僕の聖地ですから」
「え…もしかして岡本さん…ネクロフィリ…」
「死姦はしないですよ…なんでみんなすぐそういう発想するかなぁ」
「フツーしますよ」
「あ、そうですか。でも僕は性行為には興味ないんで」
「岡本さんも同性愛?」
「いえ、ですから僕は生きてる人間には興味を持てないんです。分かります? ここ重要なとこですよ。同性愛も異性愛も僕には関係ない。だから生きてる時点で幸村さんには興味が持てない。だいたい僕自身が死んでるんですから。住んでる世界が違うんです。あの世とこの世は世界が違うの…わかるでしょ?」
「…それって…どういう…?」
「僕は物心ついた時から生きてるって感じが無いんです。肉体だけが生きてることに気づいたのが中2のとき。男の人から首絞められて失神してるとこ無理やり犯されて…まぁ犯されただけじゃないですが。でも僕はゲイでもヘテロでもないです。死人です」
「岡本さんって…」

 そう言うと佐伯陸は再び押し黙った。