その日の解剖は昼からで、独り暮らしの男性の高齢者の不審死だった。子供もいないし、兄弟もすでに他界していた。姪御さんにようやく連絡が取れたらしく、遺体の引き取り人となってくれるようだった。
死因は餓死だった。普通ならこの遺体の状態では検視の段階で犯罪性がないと判断されるのだが、窓ガラスが割られて鍵が開いていたのを不審に思った近所の主婦が警察に届け出たそうだった。部屋が荒らされていて、畳に土足の足跡と、通帳や現金が全くなかったので、強盗の疑いがあったようだった。事件性は無いと言ってよかった。推測するに、彼の死後、たまたま窃盗犯がその家に入り、金目の物を盗んでそのまま逃げたのかも知れない。
彼はにっこり笑っていた。僕はその顔を見て、おかえりなさい、お疲れさま、と心の中で言った。
お疲れ気味の鈴木さんには早めに帰ってもらい、僕はそのご老人とゆっくり片付けをした。ここのところの解剖の遺体の中で、最も静かな人だった。一緒に居るだけで雑音が消えていくようで、遺体保管室に運びこむと、僕はそこを出る気がしなかった。少し一緒に居させて下さい。僕はしばらくなにもすることなく壁にもたれ、その静けさに浸っていた。
解剖室を閉め、スタッフルームに行き、検案書に使う記録をまとめた。正式な記入は月曜日に送った。その日の日誌を書きながらコップで水を飲んだ。いつのまにか4時になっていた。そろそろ帰ろうと鍵と消灯の確認をしてもう一度スタッフルームに帰ってきたとき、廊下に誰かが立っていた。
「あの…すみません。岡本さん…ですか?」
控えめな若い男の子の声だったが、目の前3mほどのところに居たのはスカート姿の女の子だった。僕は後ろを振り向いたが、人は誰もいなかった。
「あの…ボクの声です。すみません」
「え?」
「岡本裕さんですよね」
知らない人だった。知らない人で、声が男の子で、姿は女の子だった。これがもしや男の娘というやつだろうか。それよりも、なぜその男の娘が僕の名前を知っているんだろうか。
「ええ。そうですが。なにか?」
「ボク、佐伯陸って言います」
さえき…りく…意外なことに、どこかで知ってるような気がした。名前だけ。どこで見たんだろう。名前は記憶に残りにくい情報なのに、どこかで見たらしい。僕が見るものなんて、本かインターネットのどこかだろう。佐々木陸…
「佐々木さん?」
「いえ、佐伯です」
「あ、すみません。名前覚えるのすごく苦手で…でも本かネットでお名前を見たような気がするんですが」
「ああ…ボク…隣の大学で情報システム工学の講師やってるんで」
あ…そうか。僕は珍しくその人が誰か思い出した。
「逆漂流予測のアルゴリズム作った方ですか」
「ええ」
若き天才数学者と謳われた佐伯陸がそこにいた…しかも女装で。



