前日の午前中の溺死体のプランクトン検査と、午後の刺傷遺体の詳しい毒薬物検査がこの日は同時に始まった。その日は1日遺体の受け入れがないので、二班に分かれてそれぞれ違う検査を並行して進める。当然ながらそれぞれの班長は執刀者なので、嫌でも僕は溺死体…入水自殺者の担当とならざるを得なかった。もちろん、刺傷遺体…これはほぼ刺殺で決まりのようだったが…は、堺教授が指揮を取った。替わって欲しい替わって欲しい替わって欲しい…と心の中で堺教授に10回くらいお願いしたが、結局1回だけ「29番遺体はどちらが?」と控えめな質問をして、「わ〜た〜し〜」と楽しそうに堺教授が答えるのをがっかりした気分で聞いていた(堺教授はなぜか刺創とか切創、つまり刀傷が好き)。だが、プランクトン検査は臓器の切片を主に扱うので、うまくすれば発作を回避できる可能性は高かった。

 十全な準備のもと、冷蔵保存してある臓器をそれぞれ容器に入れ、タグをつけ、パイプ洗浄剤で溶かして珪藻類の殻を抽出する。これを“壊機法”と言って、アルカリ液で臓器の溶けた液体(壊機液)を遠心分離機にかけて沈殿させ、取り出したものを顕微鏡で見て、珪藻の種類を特定する。最近はこの方法だけではなく、藍藻などのDNAを検出するPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法というものも検討されている。この方がいちいちパイプユ◯ッシュでタンパク質を溶かして遠心分離機にかけて云々のしち面倒な手間をしなくてもいいので、早く結果を出したいときなどにはいいと思う。でも、機械が高い。予算出ない。方法も研究段階ではある。

 昨日よく寝たせいか、今日は比較的意識も明瞭だし、臓器を触っても大幅に取り込まれることはなかった。ざわざわする程度は大目に見ようと、僕は大事を取って臓器から分離するクリーニングを鈴木さんに頼み、なるべく珪藻殻を見ることにした。珪藻は単細胞の植物性プランクトンで、アルカリにも酸にも強い外殻を持っている。それはいわゆる二酸化ケイ素で出来ている。

 二酸化ケイ素SiO2はガラスの一種で、石英いわゆる水晶もその仲間だ。珪藻殻はガラス質の微細な構造物で、まぁだから珪素の藻と呼ばれているんだが、とにかくその殻はとても美しい。巻き貝の黄金比、雪の結晶、万華鏡やクリスマスのガラスのオーナメントのような宝飾品にも似た芸術的な美しさがある。しかしその美しさは、珪藻のタンパク質などの軟部構造を洗い流さなければ顕微鏡には映し出されない。死んだ珪藻こそが美しい。小学生の頃、かの有名な日本初の珪藻図鑑と言われている『林弘志珪藻図鑑』を図書館で見つけて僕はよく眺めていた。法医学という分野で再びこの珪藻の美しさに出会えるというのはとても感慨深かった。

 とにかくこのプランクトン検査は急いでも2日は掛かる。早く特定してあげれば、倉持警部補の入水地捜査の決め手になるかも知れないので、海洋研究所で漂流予測を同時にやっていてもらえれば、身元の判明は早まると思われた。