午後は殺人の可能性が大という男性の遺体が運ばれてきていた。所轄の幸村さんだけでなく、県警本部からも1課の刑事さんが来ていて、物々しい雰囲気で解剖が始められた。県警の警部さんのおかげで、幸村さんが個人的に僕に話しかける時間はほとんどなく、僕らは小さくよろしくお願いしますと挨拶を交わしたに過ぎなかった。時折幸村さんの視線を感じたが、僕は無視した。
「角膜透明。死後硬直、高度。腐敗無し…」
体表の観察と記録、写真撮影のあと、早くも遅くもない、淡々としてケレン味の一切ない、いつもの安定感で堺教授の執刀が続く。
堺教授の執刀の特徴は、一見全く特徴のないそのさり気なさにある。多分、たらいで一心不乱に洗濯物を洗っている人と、堺教授の執刀を並べたら、洗濯物を洗っている人の方に注目が集まるとさえ思う。遺体がそこで切り開かれているのに、だ。菅平さんがいみじくも言っていたが、堺教授にかかると、遺体の皮膚が布切れに見えてくる…という。この人には遺体はただの物体にしか見えていないのではないかと思ったりする。しかも日常の。普段の堺教授の常識的で温厚な部分を突き詰めて精製すると、このような異常なほどの普通さ(言っていて矛盾していると思うが)が非日常を凌駕して普通に現れてくるのだとも言えた。
本当はそうじゃないのかも知れない。どこかでそれを感じる感受性を完全なまでに閉じきっているだけなのかも知れない。遺体というものの特殊性、非日常性を抹殺できるほどの。しかし閉じた自分だけではなく、その影響を他人にまで与えられるというのは、魔法使いか妖怪のようではないか。
だが、この非日常を閉じる力が、執刀中に僕を少しづつ正気に誘ってくれた。途中から幸村さんを前にしていることも忘れた。淡々と一定のリズムを持って臓器が切り刻まれ、僕に渡される。それを僕も淡々と量り、記述し、淡々とパックに入れていった。凶器は現場にはなく、損傷は背部と腹部に合計3箇所、形状は鋭器損傷、つまり鋭利な刃物かなにかでの刺創であると判明した。それにしては防御創(生前に腕などで刃物をよけた痕跡)がない。創傷の生活反応はあるのに、どういうことかというのが論点になっていた。殺害当時の意識状態が問題となり、アルコールに依る酩酊や睡眠薬、ドラッグなどの服用の可能性も出てきていた。
その後、尿と血液を採取し、技師の鈴木さんが毒薬物検査に入った。そこではアルコールや眠剤、麻薬系といった薬物や毒物の反応は出なかった。



