僕を止めてください 【小説】





 そのとき左手の手首が疼いた。僕は思わず右手で左手首を掴んでいた。さっきの解剖中にもこれが疼いた。なぜだ。こんなこと今までになかったのに。

 そのとき僕は自分の心の中でずっと無意識に呟いていることに気づいた。

(…僕はちゃんとやってる…逃げてない…僕は逃げてない…無責任な解剖はしない…疑われるような不用意なこともしない…貴方の仕事を妨げるようなことはしない…自殺屍体を避けることをやめる…だからこれで…これでいいでしょ…幸村さん…)

 そうだよ。僕は初めて一切の逃げを封じた。ではこれは自殺屍体から逃げずに自分を全投入した結果なのか。初めて意識を全部開いて自殺の屍体に集中したことの反動なのか。今まで避けていたことを一切やめて、幸村さんとの約束を守っていることを、僕はそのときようやく気づいた。切れた皮膚は点状の痂皮になり、赤かった内出血は青くなって、傷そのものは癒え始めている。でもそこには見えない手錠がまだ嵌っていた。僕はまだ繋がれている。“それ”から逃げないように。掴んだ手首の皮膚の凹凸がにわかに指の神経を尖らせた。

 この桎梏を負いながらここに居続ける。逃げない決意をしたのに、こんなに苦しいものなのかと驚く。この焦燥、この狂乱、この感覚は佳彦と別れたすぐの、あの初めての狂躁と何ら変わりがなかった。僕は初めてのあのとき、どうやってそれを止めたんだろう。ずっと忘れていた。気がつけば意識から追い出してすでに10年余り経っていた。ささくれだつ右手の中指の神経に橈骨動脈が脈打つ。脈動を感じたくなくて逃げたその中指に、よく知った傷口が触れた。

 ああ…あの時僕はここをカッターで切ったんだ。

 とすると疼いてるのはカッターで切った傷なのか、手錠の傷なのかはもう判別はつかなかった。焦燥に負けて隆に初めて電話を掛けた。手首を切って母親に見つかった。隆に発作を止めるために何度も落としてもらった。焦燥を止める…それはただ死のうとすればいい。結局僕は一緒に連れて行ってくれなかった本当の父親にいまだに連れて行かれなかったことを悔やんでいるだけなのかも知れない。僕はそのとき以来狂っている。自殺の遺体はそれを思い出させるに過ぎない。僕が捨て子だってことを。そこから僕は抜け出すことが出来ないのか…

(全部俺が止めてやる。だから狂っててもいい) 

 望まない声が不意に耳の奥でこだました。やめろ。僕はその声を制止した。やめてくれ、関わるなって言ったろ。あのときどうしようもなくて隆に電話した、そのことを僕はずっとずっと後悔し続けたのだから。誰でもいい僕など、誰にも必要はない。

 僕は焦った。こんなところ、あの人に見せるわけにいかない。それだけはどうにかしなければ…と。