頭部から胸腔、腹腔へと移る。今日、最も注意して所見をしなければいけない肺、胸腔だ。Y字に切り開き始める。気道にはやはり白色細小泡沫が充満。溺水肺の膨大所見。肋骨圧迫痕、Paltauf氏斑がある。肺を取り出す。胸水貯留、溺死の判定材料が次々と増えていく。本当は溺死のなかでも入水自殺だ。でも今はそれは言わないでおこう。ただ脱いだ靴がほんとに見つかっているのかどうか、とても気になった。
肺の解剖で水性肺気腫が見られた。あとは各臓器のプランクトン検査と、血液の薬毒物検査、歯科での身元確認だ。肺のプランクトン分布と、各臓器のプランクトンの分布で溺死の確証が出来る。そして入水地の海水中のプランクトンのスペクトルを突き合わせて、どこで溺死したかどうかの検証をする。入水地がわかっていればの話だが。
「入水したのはどこですか?」
僕は海水の採取を頼もうと管轄署の刑事に尋ねた。
「海流が早いんでねぇ。ちょっと離れてる可能性があるね」
「まだ全くわかってないんですか?」
「遺留品も不明だなぁ。まだ特定できる家族が居ないんでね…心当たりの2組ほどに見てもらってはいるけどダメだったわ」
「靴…履いてました?」
「いや、ストッキングだけだったけどね」
「自殺の可能性もありますので、堤防なんかに靴が揃えて脱いであったような目撃証言とか…3日前ですから…月曜日あたりですが。海洋研究所に頼んで、海流のアルゴリズム計算で、この重さでこの容積の物体が3日かかって発見現場に着くあたりの場所をシュミレーションしてもらって下さい。先にプランクトンの種類特定しますから、ざっとわかったら候補地の海水の分析してみると、逆にある程度場所が判るかも知れませんし」
「ああ、そうしますわ」
開始が9時、警察側が撤収し、片付けが全部終わったのが12時半だった。終わった途端に僕はトイレに駆け込んだ。個室のドアを閉めた瞬間、抑えつけていた感覚が一気にほとばしり、腰と膝の力が抜けた。僕はドアにもたれたまま、ズルズルとしゃがみこんでいた。性感に脳を占拠されて思考が飛ぶ。喘ぐ唇を肩口に顔をうずめて耐えた。腕の付け根に押し当てた自分の吐息が熱い。
「く…う…」
震える手で引きずりだした保冷剤はすっかり生ぬるくなり、用をなしてはおらず、仕方なくポケットのミントのスティックを鼻に突っ込んで痛いくらい塗りつけた。
変だ。こんなんじゃなかった。もっとマシになってたんだ。前回と違い、今回は万全を期していた。それなのにこれほど切迫して喘いでいるのは久しぶりだった。大学での法医学講座の初期の頃見た自殺屍体の画像が一番やっかいだった。それでもここまで身体が言うことを聞かなくなったのは、最初の何回かだった。頭を両手で抱え、小さく丸まって耐える。もうない。もうあの遺体は目の前にはないんだって。すでに午後の解剖が予定されていた。片付けの時に菅平さんが通達してくれていたが、有り難いことにそれは堺教授が執刀してくれることになっていた。僕はサポートで計測と記録を受け持つ。だが問題は、その管轄署が幸村さんの強行班だったということだった。



