僕を止めてください 【小説】




 ふやけて真っ白い皮膚が魚についばまれて毛羽立っている。膨化はまだないが死後硬直は解かれていて死後48時間以上は経っている。角膜は完全混濁。手足は漂母皮化(ふやけることの専門用語)していて、すでに剥離脱出寸前だった。このことから、死後3日前後であると推測される。3〜4日経つと、手足の表皮は手袋、足袋状に剥離して失われる。ギリギリでこれが残っているし、死後硬直が解け終わるのが3〜4日なら、間を取って3日だろう。遺体の状況を頭の先からつま先に向かって記録者の田中さんに述べていく。

 すべての準備を入念に施したにも関わらず、僕はすでに息が上がり始めていた。手が震えないように、それがバレないように遺体の表面に集中する。ヴィジョンが視界を不意に遮る。やめろ。もう侵入してくるな。僕はいまここにいるんだ。

 彼女は口の中でごめんねと呟いた。誰に謝ってるんだ。身体を支えられない。心も。もう自分で立っていたくない。防波堤。明け方のまだ薄暗い海風の中。日本海の冬の風は強い。長い髪が煽られて顔を覆う。防波堤の端で脱いだ茶色いスニーカーを手で揃えている。濡れたテトラポットの上に降りていく。高い堤防に高く砕ける真っ白い波濤。叩きつけるように落下する水しぶきに吸い込まれるように身を落とした…

「靴が揃えてある…」

 いつのまにか僕は呟いていた。田中さんが聞き返した。

「え?」
「…あ…いえ、すみません。擦過傷…右下腿後面中央から真下に55mm」

 体表面の観察記録が終わり、警察側が全身写真を上からとっている間、僕はもう一度ハッカを鼻腔に塗りこんだ。少し視界が覚めた。だが三体腔開検に移る頃には、下腹部にはすでに赤々と燃える熾火のようなものが入っていた。ひどいもんだ…まだ午前中なのに。だが、意識を集中しなければならない。少なくとも、あのことがあってから、僕は自分に腹が立っていた。つけ込まれるのは僕の脇が甘いから。幼い頃の無意識の記憶に飲まれた自らの無防備さ…話にならない。淫火に嬲られた、あの屈辱的な夜が僕の中の怒りを増幅していった。頭蓋に水をかけながら電ノコで開頭していく。水が僕の手元に飛んできてラテックスの手袋の上から手首に掛かった。不意に左手に食い込む手錠の冷たさが甦っ…

「…!」

 誰にも気づかれてはいない。でも一瞬左手の力が抜けかけた。ドクンと血が逆流した。どうして? それは屍体じゃない。手錠は…関係ないでしょ? あの夜のことがまだ忘れられないのかと、僕は暗澹とした気持ちになった。